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中村梅吉氏とお粥の味(田村 哲夫)2007年5月

天衣無縫の政治家
自民党に昔、中村梅吉という代議士がいた。資料によると、1901年生まれ、三木武吉法律事務所で弁護士生活を始めたが、三木の薦めで28年に東京府会議員となり、36年衆議院に初当選、以来76年の政界引退までの間に、法務、建設、文部などの主要閣僚を歴任したほか、衆院議長まで務めた大物代議士である。

終戦後は一時公職追放の憂き目にも遭ったが、その後復活、「反吉田」の急先鋒で、河野一郎などと日本自由党をつくり、さらに日本民主党を結成、幹部におさまっている。

保守合同後は河野派(春秋会)に所属した。生粋の党人派のこの人の軌跡を見ると、華々しいと言うより、荒々しいと言った方がいいような感じだ。

しかし、直接会ってみるとそんな荒々しさなど少しも感じさせなかった。駆け出しの私が最初に会ったのは、佐藤内閣の終わり頃だったと思う。河野の死で春秋会が中曽根派と園田派に分裂、中曽根派所属となったが、中曽根会長より17歳も年上の大幹部。すでに60代半ばで「中曽根君を総理にするのが最後のご奉公だ」が口癖だった。

ごま塩頭の色白の巨漢で、澄んだような、しわがれたような声を出す、温厚でいて豪放磊落な人物。話を聞くと、酸いも甘いも、人の心の表も裏も知りつくしているような感じの人柄で、苦労してたたき上げた大工の棟梁かヤクザの大親分か、といった印象だった。

目白通りに面した大きな屋敷が自宅。繁茂した庭木の間に住宅と選挙事務所が隠れるようにして立ち並んでいたが、立ち働く人はいたって少なく、夜回りに行っても、帰宅を確認するのにまず苦労するようなところだった。それでも帰宅していれば必ず会ってくれるし、政局動向に関しては、派内だけでなく他派の動向まで、知っていることは何でもつつみ隠さず話してくれるので派閥記者には有難い取材先だった。

衆院議長に就任したのが72年暮れ、第一次田中内閣の改造期だった。議長になると普通は派閥記者にはたいした取材先でなくなる。政局の動向に直接絡むような立場でもなくなるし、仮に機微に触れるような情報を知っても簡単には漏らすようなことはしなくなるからだ。自ずと記者の足は遠のく。私も例外ではなかった。



翌73年5月、第71特別国会が会期延長の自民党単独採決などでもめ、野党の審議拒否が始まった。事態打開のため与野党間に割って入った議長は持ち前の調整力で双方の妥協点を見つけ、最終的に「議長としてはもう単独採決はしない。委員会もそうしないよう努力する」という一札を作って双方に見せ、歩み寄らせ、ようやく月末の29日審議再開という線で与野党合意が成立した。議長の手柄である。我々記者も、あの人柄だからまとまったのだろう、と評価した。

ところが、これにほっと安心したのか、たまたま開かれた前任議長の叙勲祝いの席で、国会の収拾劇を説明しながら「野党をごまかしておいた」と喋ってしまった。本人にしてみれば本当のことを分かりやすく言ったつもりだった。

というのも、委員会の採決には議長が口出しなどできないが、野党が委員会単独採決もするなと言うので、努力すると言う言葉でその場をやっと収めた、という経緯を説明しようとして、「ごまかした」という表現を用いただけのつもりだったからだ。

だから野党がこの一言を捉えて、議会無視だ、辞任しろ、と要求し始めたのに最初は面食らった。議長公邸での釈明会見でも「どういう言葉のアヤで(野党に)捕まったかよく分からないよ」としきりに戸惑っている。気持ちに嘘はなかったはずだ。しかし、雲行きは怪しくなり、せっかくつくった審議再開の合意も事実上白紙状態に戻ってしまった。押され気味の与党内からも辞任による事態打開止む無しという声が出始めた。



私も再び目白への夜回りを始めた。どの時点で辞任するかが当面の政局の焦点になってきたからだ。28日には訪日中の英国下院ロイド議長の歓迎行事があるから辞任は難しいだろう。とすると、28日遅くか29日早くという時点が辞任時期だろう、と見通しを立て、27日の日曜日夜、家へ押しかけた。かなり遅い時間になったが待っていてようやく本人に会えた。

率直に、辞任しか収拾の道はないように見えるが、などと生意気な口を利いて考えを尋ねると「ウン、明日の夕方公式行事が終わったら辞めるよ。角さんにも、中曽根君にも話したよ」と実にあっさり言う。

ここまで聞き出せばもう「今夕辞任」と朝刊に確報を打てる。急いで帰ろうと立ち上がると「イギリスの議長もいるから朝刊には書かないでくれ。夕刊ならいいよ」の一言。せっかくの特ダネなのに、オフレコとは残念、とは思うが、ここまであっけらかんと事情説明されると反論も出来ない。相手の立場やこれからの関係を考えれば、聞かなかったふりをして書き得を決め込むわけにもいかない。

社に戻り、 朝刊最終版をどういう原稿にしようか散々悩んだ末、「辞任必至の情勢 今日最終決断」と約束ギリギリセーフの原稿にした。次の夕刊なら書いていいといわれているから、早版用に「今夕辞任」と自信に満ちた原稿を書き置いて、帰宅した。

しかし、やはり心配で早朝、他紙を見ると某紙は「辞任を決意 今夕発表」と断定報道しているではないか。昨夜の夜回りは単独だったのに、とやりきれない気持ちで早速また家まで押しかけ「ひどいじゃないですか、私には書くなと言っておいて」と愚痴をいうと「そういえば君の帰った後、どっかの社から電話があって、君に話したのと同じことを言ったな。しかし、書くな、というのを言い忘れたのかもしれないな」と平気なもの。

「ひどいですよ先生、約束守った方はどうなるんですか」とめめしく、文句を重ねると「いやすまなかった。朝飯でも食っていけよ」と言いながら、よく煮えたお粥と梅干を出してくれたので、一緒に食べた。

すると、田舎の親父とぎこちない気持ちで一緒に食事しているような感じになってきて、抜かれた嫌な気分も少しずつ収まってくる。帰りの車の中では「そうか、こういう天衣無縫の人だからこそ、ごまかした、とも言ってしまうし、議長のような高い地位もあっさり手放すんだろう」と納得、急に気分が良くなった。

抜かれたからその時はしかられた。しかし、約束を守ったからこそ、今になって、人柄もお粥の味も懐かしく思い出せるのだろう。

<拾遺>

氏はその後、法相をもう一度務め政界を引退した。記者との内輪のご苦労さん会が開かれた時、我々は公団住宅事件といわれる数年前の事件の顛末を聞いてみた。事件というのは、建設相の時、庶民には高嶺の花だった公団住宅の一部屋をある親しい女性にそっと優先的に割り当てた、と某紙社会面にすっぱ抜かれ、謝った事件のことである。以下本人の弁の採録。

──いやー、あの時は参ったね。新聞に出たその夜に、地元後援会の女子部の代表が十人以上で家に押しかけてきてね。「その女性と手を切らないなら今後一切応援しない。この場ではっきり、別れると約束しろ」というんだよ。困ったことになった、と思ったが、仕方ないから「明日朝返事します。一晩考えさせてください」と言ってその場を収めたんだ。

翌朝早くまた来たから「一晩よく考えてみました。その結果、あの女性と別れるくらいなら選挙に落ちても仕方ないと覚悟しました」と答えたんだ。すると、代表の人もびっくりしたらしく、しばらくは黙ってしまったが、中から「ここまでいう先生は、もしかしたら女性の本当の味方かもしれない。このまま応援したらどうか」という意見が出てね、そのうちなんとなくそんな空気になって、最後はみんな納得して帰っていったよ。いやーあの時下手していたら、今まで来れなかったかもしれないね──

出来すぎた話のような気もするが、あの人なら本当だったかもしれないな、という気が今でも率直にいってする。今となっては真偽の確かめようもないが、今時分の政治家にはなかなか語れない話であることだけは間違いない。これも時代の流れということか。



たむら・てつお会員 1941年生まれ 64年日本経済新聞入社 政治部など 94年退社 テレビ東京取締役など 現在 ㈱テクノマックス社長
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