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追想、伊藤昌哉氏(佐藤 雄一)2007年2月

孤高の評論家 ─その生と死─
新聞界出身で池田内閣の名秘書官として知られた伊藤昌哉さんが平成14(2002)年12月に85歳で大往生をとげられてからもう4年の月日が流れた。池田氏亡きあとは『自民党戦国史』『新・自民党戦国史』を相次いで著すなど精力的な著作活動、テレビ出演などで政治評論家としても大きな足跡を残された伊藤さんが、いまの政治の姿を見たらどんな論評を下されるだろうか。

伊藤さんには『哲学のない政治家が国を滅ぼす』という著作がある。その中で「政治の哲学は簡にして明だ。ひと言で言えば“経国済民”にほかならない。経国済民の志に立って国が置かれている状況と課題を冷静に見据え、それが焦点を結ぶところに政策を打ち立て、その実現のために働くのが政治家というものである」「目前にある政治家の姿はどうだろう。二流の人物が三流のやり方で第一級の仕事に取り組んでいるとしか思えないのだ」と述べている。

その伊藤さんのことだから国民の生活格差が広がっているのに「美しい国へ」という言葉だけが宙に浮く政治には目をそむけるに違いない。

伊藤さんが池田内閣で首相と一心同体となって取り組んだのは「高度成長政策」「所得倍増計画」である。「所得倍増」については見る人の立場によって様々な評価があるだろうが、60年安保騒動で空前の盛り上がりをみせたデモのエネルギーがうたかたのように消え「政治の季節」が「経済の季節」に転換していったことは確かだろう。そうした体験が身にしみているからだろう。伊藤さんが怒りをこめて我々政治記者などに口にしたのは「池田は国民に夢を与えたが後の政治は国民の夢を奪っているばかりだ」という言葉だった。

■「第2の保守合同」大福提携

伊藤さんは「人間嫌い」を自認するだけあって派手な立ちまわりは極力避けていたが、目立たないように気配りしながらも見事な存在感を示したのは三木内閣末期の福田─大平の「大福提携」だった。昭和49(1974)年、当時の田中内閣の金脈事件による退陣を受けて、「椎名(副総裁)裁定」による三木内閣が発足し、福田赳夫氏が副総理・経企庁長官、大平正芳氏が蔵相に就任する挙党体制を整えた。しかし、せっかくの挙党体制も石油ショックによる不況の深刻化や公労協ストに対する社会不安などもあって三木政治は終始、不安定なままだった。

そうした中で当時、自民党担当の政治記者だった筆者は大平蔵相の政治指南役視されていた伊藤さんとたびたび話し合い、政局打開の方向について意見を交換した。伊藤さんは政局混迷の背景には田中ヤミ将軍の復権工作があり、「椎名暫定政権」を含みにした「椎名裁定」もその一環に過ぎないことを指摘されていた。

そうした状況下では自民党を二分する福田・大平両実力者が手を結び合い「安定保守」を再構築する以外道がないというのが2人の結論になった。その場合、福田にあっては三木離れ、大平にあっては田中離れが前提だった。

当時、党内や財界の一部にも「大福提携論」はあったが、大方の関心はポスト三木の先陣争いとして2人のいずれが予算編成の主導権を握るかに向けられていた。伊藤さんが大福提携に動いた背景には閣内や所管の大蔵省内でも主計官出身の福田氏の影響力が圧倒的で、盟友の大平蔵相のカゲが薄い危機感もあったと思う。そうした背景もあって福田・伊藤の秘密会談が12月5日にようやく実現した。

この会談で伊藤さんは「経済危機は深刻だ。経済について勘の働かない三木総理では心もとない。大平、福田のいわゆる薩長連合が必要だ。これで乗り切るしかない」と力説している(『戦国史』参照)。このあと、政府、与党の体制について福田氏が福田、大平の総々分離論にふれているが、伊藤さんは「総理・総裁は一体であるべきだ。総理には福田氏が就任し、大平は党の幹事長に回った方がいい」と率直に述べている。

2人の話し合いは2時間以上にも及んだが、当夜、野沢の福田邸を訪ねると福田氏は伊藤さんの熱情によほど動かされたと見えて「胸のつかえがとれたようだ」と何度も繰り返していたことが印象に残っている。

伊藤さんは後日、大平派の鈴木善幸氏(後首相)に対しても、「大福提携は第2の保守合同だ。あなたはまとめ役として第2の三木武吉になるべきだ」と説得している。大福提携については後になって「オレがやった」という向きもあったが、伊藤さんの進言で昭和50年度予算が「大福モチ」と称されたほど両者の呼吸がピッタリで編成されたときにすでに大枠が固まっていたのである。

こうした経過を経て福田内閣が成立し、大平氏は幹事長のポストについた。

しかし、大福提携内閣が実現したものの福田退陣の時期をめぐって党内抗争が再燃し、初めて導入された予備選挙で現職の福田総裁と大平氏それに中曽根康弘、河本敏夫の4氏が立候補した。投票の結果は田中軍団の強い支援を受けた大平氏が第1位となり、福田氏は議員だけの本選挙を辞退して大平内閣が誕生した。

そのシコリが尾を引き、大平首相が解散─総選挙で敗れたこともあって首相の責任論が噴出、内閣不信任案による大平内閣の再度の解散─衆参同日選挙の中で大平首相が病死するという悲惨な結末になった。

それでも、伊藤さんは「大福提携は不幸な結末となったが、それがなければ福田内閣も大平内閣も陽の目を見ることはなく、田中逮捕によるロッキード事件の衝撃も乗り切れなかったろう」と言葉少なく語った。

■小泉は長続きする

晩年になってますます“人嫌い”になった伊藤さんは練馬の自宅書斎に閉じこもる日々になったが、その中でも平成4年から同5年秋まで1年半にわたり栃木県の県紙栃木新聞に「伊藤昌哉『政局を読む』」を連載していた。その全文の復刻と口述筆記、解説に当たった当時の栃木新聞記者小枝義人氏(現千葉科学大薬学部教授)の執筆した『伊藤昌哉、政論』がこのほど出版されている。

小枝氏によると伊藤さんの口述の際の口ぐせは「天地に仕えるとき、政治家は伸びる」といういかにも金光教の熱心な信徒だった伊藤さんらしい語り口だが、当時、発足したばかりの小泉政権についても「小泉は天地に使われている。この政権は意外に長続きする」と私心のない小泉政治を評価していた。

伊藤さんの晩年は先に触れたようにほとんど外出せず、人とも話さず情報源は毎日、丹念に読む新聞だけだった。淳子夫人によると多い時は政党機関紙を含め8紙にも及んでいたそうで、それを視力の衰えた伊藤さんはルーペを使って赤のアンダーラインを引きながら読み込んでいた。

伊藤さん自身も、新聞の読み方を聞いた小枝氏に「新聞は中身の薄いものから順にきめ細かいものを読んでエッセンスを読みとる。午前中は新聞を読むだけでヘトヘトになる。その情報を元に分析・予測する。政治の本質は首相秘書官として官邸にいたときや大平のかたわらでアドバイスしたときと何にも変わっちゃいない。結局、政治家はどうしたら自分の権力維持に得になるかを考えて行動する。だから、新聞報道をみると大体分かっちゃう。その際重要なのはだれとだれが会ったという事実だけを伝えてあるベタ記事だよ」と語っている。

■「オレは日本経済になった」

伊藤さんが最後まで心配したのは日本経済の先行きで、死期が迫った9月25日わざわざ一人で永田町のキャピトル東急ホテルまで足を運んでくれた。夫人によると筆者が「伊藤さんが最後に会った外部の人」ということらしいが、既に足がむくんで靴も履けない有様だった。それでも政治への情熱はいっこうに衰えず内閣改造を前にして「改造には大義名分が重要なこと」「政策面では失業対策を重視すること」を力説された。

死去される3日前の12月10日に、床から起き上がれなくなった時も「オレは日本経済になってしまった」と語ったという。折からの平成不況の出口が見えない日本経済の先行きを案じてやまなかった憂国の伊藤さんらしい最期だった。



さとう・ゆういち会員 1931年生まれ 56年東京新聞(のち中日新聞) 政治部次長 論説委員 政治担当編集委員など 91年退社 政治評論 日・露医学医療交流財団常務理事など
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