ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


書いた話/書かなかった話 の記事一覧に戻る

モスクワ特派員(河野 健一)2006年6月

断片─ロシア有情
1989年春から3年半、毎日新聞モスクワ支局に勤務した。ソ連に赴任して、不条理が大手を振ってまかり通る世界を初めて経験した。日本や前任の西欧では当たり前のルール、常識が全く通用しない。悪い印象が募った。

だが日が経つにつれ、この国の別の顔が少しずつ見えてきた。広大な領土に多くの民族を抱える多様さ。厳しい自然に耐える労働者や農民の素朴な人間性。生活苦の中でも失わない文学や音楽への愛情。圧政と向き合ってきた知識人の思考と精神の奥深さ……。激動の歴史を刻んできた大国ならではの面白さと魅力に目を開かされた。

私の心に残る「ロシア有情」の断片を綴ってみたい。

 ■極寒の夜に震える──

1989年夏、ソ連の炭鉱労働者

が戦後初めてのストライキに立ち上がった。物不足、低賃金、劣悪な安全対策に抗議しての決起だった。

社会主義の本家で炭鉱労働者が政府に反旗を翻したのだから、大変な事態である。ウクライナにあるソ連最大のドンバス炭田の取材に飛んだ。現地で会った炭鉱労組幹部から「もっとひどい条件下で働いているシベリアの仲間を取材しなさい」と勧められた。

助言に従い、翌90年1月、シベリア中部ケメロボ州のクズバス炭田を訪ねた。中心のプロコピエフスクでは労組と政府代表の団交が開かれていて、初日の取材はうまくいったが、市内にはその夜のホテルがない。当時、外国人が市民の家に泊まるのは許されていなかった。やむなく、労組の世話で、スポーツセンターに一室だけあるビジター施設に泊まった。

そこで予想外の試練に遭った。労組の人も事前には知らなかったのだが、部屋に入った後、設備の故障で部屋の暖房が全くきかないのに気づいた。連絡を取ろうにも電話はないし、守衛もいない。

骨まで凍る寒さとはこのことか、と思った。極寒期だから昼間でも氷点下32度、夜は40度以下になる。室温も外気並みのはずだ。セーターと背広の上にドブリョンカ(毛皮のコート)を重ね、帽子をかぶり、防寒靴をはいたままベッドに潜り込んだ。それでも震えがとまらない。「ならばセントラル・ヒーティング」と持参のブランデーをあおったが、効果はない。一睡もできなかった。

翌朝、迎えに来た電気技師シェルツォフさんに頼み、暖房のきいた彼の自宅で一休みした。イリーナ夫人が乏しい食材をはたいてスープをつくってくれた。このうえもなくおいしく、ありがたかった。

聞けば夫人は出産を間近に控えているが、物不足で肉も卵も手に入らない。野菜もジャガイモと腐りかけたニンジンしか買えないという。私も3人の子供の父親。妻と胎児の栄養不足を心配するシェルツォフさんの気持ちは痛いほど分かる。スープのお礼にと持ち合わせのビタミン剤を進呈したら、とても喜んでくれた。

極寒のシベリア取材から16年。ロシアは石油、天然ガスの高騰でうるおい、高度成長が続いている。その恩恵はクズバスの炭鉱にも及んでいるのであろうか。インターネットでロシアの新聞を検索しても、確たる情報はない。

■村長の奇妙な誘い──

中央アジアのカザフ(現在のカザフスタン)は面積が日本の7倍もある。ロシアとは別の共和国だが、ロシア人も数多く住んでいる。首都アルマータはマルコポーロの東方見聞録にも登場するシルクロードの要衝であった。

カザフは穀物、食肉など農産物が豊富なところだ。ゴルバチョフ政権のお墨付きのもと、いち早く農業改革に着手し、家畜の私有と農地の相続権付き賃貸を法制化した。農業の小規模な民営化の導入である。

国営農場(ソフホーズ)と集団農場(コルホーズ)しか許されなかったソ連で、自営農が本当に育つのか。それを確かめるために91年秋、カザフを訪ねた。

アルマータの東80キロ、天山山脈の支脈を望む草原の村に自営農アフメドフさんの牧場があった。国営農場から土地を賃借し、4700頭の羊を飼っていた。「家族が力を合わせ、やっとここまでこぎ着けました。でも、やりがいがある」。馬で羊を追うアフメドフさんに、遊牧の民を祖とするカザフ人の誇りを見た思いがした。

取材後、地区の執行委員長(村長)やタバコ栽培の自営農がアフメドフさん宅に集まり、昼食会を開いてくれた。子羊の丸蒸しという豪華メニューだ。ウオッカの酔いが回った頃、村長が席に連なった村の娘さんたちを見ながら私にささやいた。「今夜、私の家で気に入った娘と恋をしませんか」。

丁重に断わったが、村長は本気とも冗談とも取れる口調で続けた。「心配しないで。もし子供ができたら、村で育てます」。

村長の真意は分からなかった。だが、トルコ系で髪の毛が黒いカザフの人々が日本と日本人に親近感を抱いていることは、別の取材で感じられた。なにより嬉しかったのは、アルマータ市内にある日本人墓地の手入れが行き届いていることだった。

そこに眠るのはシベリアで抑留され、カザフで強制労働させられている間に亡くなった元日本兵の方々である。身の引き締まる思いで墓に参り、日本とカザフの友好を祈った。

■ 記者魂への共鳴──

「ロシアの快男児」。親しみと畏敬を交え、私はアレクサンドル・ボービン氏をそう名付けた。何人もの外国の記者と知り合ったが、彼ほど豪放磊落でスケールが大きく、それでいて繊細な神経と鋭い直感力を持った人はいなかった。

イズベスチア紙評論員としてすでに令名高かった氏と初めて会ったのは、モスクワ赴任直後だった。先輩の江川昌・前支局長(故人)の奔走で、氏が「ペレストロイカの窓」と題するコラムを毎日新聞に連載する話が決まっていたので、挨拶を兼ね食事をともにした。太った身体と立派な八字髭。いかにもロシア人という印象を受けたが、威張ったところが少しもない。年下の同僚として私に温かく接してくれた。

会う回数を重ねるにつれ、政治・外交から文学や料理に至るまで博覧強記ぶりに驚かされた。発想が自由で、書くものに伸び伸びした面白さがある。複雑な事象を分かりやすい比喩で解いてみせる器用さとロシア風ユーモア感覚も持ち味だった。

ゴルバチョフ改革の擁護者であっても、政権べったりではない。バルトの民族運動に対する武力弾圧を許したトップとしての責任を問うたし、クーデターの半年前には「赤い軍産複合体(氏の表現)が不満を強めている」と警告を発してもいた。

私のアパートにも何度か招いた。胃袋もけた外れに大きい人だったので飲物と食事の準備が大変だった。祖国愛では人後に落ちなかったが、ドイツのビールには目がなかった。次にワインを楽しみ、最後にギンギンに冷やしたウオッカで舌を締めると、満足して帰って行ったものだ。

親交は氏がソ連解体前の91年11月、駐イスラエル大使に任じられるまで続いた。92年秋、私が東京に帰任し、暫く接触が絶えた。氏は97年、任期を終えてイズベスチアに復帰した。その翌年、私がモスクワに出張する機会があり、7年ぶりに再会したのが最後となった。

2004年秋、バルト取材のついでにノルウェーに立ち寄り、ヤグランド元首相らとEU拡大で意見を交わした。オスロ平和研究所も訪ね、そこで会ったロシア人研究者からボービン氏が半年前に他界したと聞き、暫く言葉を失ってしまった。

プーチン政権下のロシアでは報道機関の締め付けが強まっている。巨体の内に熱い記者魂を燃やしていた氏は、強権政治への逆戻りを憂えながら旅立ったに違いない。

「ボリショイ・スパシーバ、ボービンさん!」。ロシアの大きさと深さを教えてくれた畏友をしのんで、私はオスロで寂しい酒を飲んだ。

こうの・けんいち 1943年福岡県生まれ 68年毎日新聞入社 東京社会部 ボン特派員 モスクワ支局長 論説委員 99年から県立長崎シーボルト大学国際情報学部教授主な著書に『ユーロ誕生──欧州が世界を変える』『マスメディアと国際政治』(共著)など


ページのTOPへ