取材ノート
ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。
小野田寬郎さん(山下 幸秀)2006年11月
84歳、「らしさ」の証
小野田寛郎さんが、私たち夫婦を出迎えてくれた。背筋をまっすぐに伸ばし、いつも若々しい。自ら運転する日本車のナンバープレートは「1922」。自分が生まれた年だ。
空港から50キロ、車は原野を貫く国道を驀進する。私たちが「FAZENDA ONODA」(小野田牧場)を訪れたのは昨年2月だった。
地元の日系人会の句会で、のちに小野田さんが詠んだ句である。
友を待つ滑走路の果て鰯雲
小野田寛郎さん。32年前の昭和49年(1974)3月、フィリピン・ルバング島から30年ぶりに生還した、あの元陸軍少尉である。当時51歳だったが、いま84歳。ルバング取材が縁となってのおつきあいが嵩じて、小野田牧場を訪問することになったのだ。
* * *
牧場は成田空港より広い。周囲48キロ、面積1200ヘクタール。2000頭の食肉牛が放牧されている。ルバング島から帰還した翌年、実兄の薦めもあって、小野田さんは単身海を渡った。その後、結婚した15歳年下の町枝さんとつくりあげたのが、この牧場である。灌木が茂る坪100円の原野を開拓、国や人から金の援助を受けずに、徐々に拡大していった。
牧場の朝は野鳥の鳴き声で明ける。地平線から灼熱の太陽が昇る。
さあ、朝飯前のひと仕事だ。小野田さんは白馬にまたがって走り出す。すかさず私も伴走する。ブラジル人の3人の牧童、支配人の里晋平さん、2匹の犬が後を追う。
とっさに私も一句ひねった。
天高し轡並べて武人とゆく
「ホーイ、ホイホイホイホーイ」
小野田さんの甲高い声が大草原にこだまする。その声を合図に、牛の群れが動き出す。牧草が青々と茂る隣のサークルへの移動だ。落雷から牛を守るため、サークルを囲む針金には、アースが仕掛けられている。
ジーパンに半長靴、カウボーイハット。青年将校を思わせる小野田さんの手綱さばきを見ながら、軍刀を手に、初めて私たちの前に現れた、遠い「あの日」を思い出す。
この人に「風化」という文字は無縁なのか。硬い岩石でも、長い年月風雨にさらされれば、崩れたり分解したりして、土になるというのに。
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小野田寛郎元少尉が、100人を超す私たち報道陣の前に姿を見せたのは、昭和49年3月10日、午後9時25分。その衝撃は、いまも鮮烈に記憶している。
私は産経新聞の取材班キャップとして、6人の同僚とフィリピンへ飛んだ。その2年前には、28年ぶりに発見された元陸軍軍曹、横井庄一さん(当時56歳・故人)を追って、グアム島で取材している。その経験をひっさげての出撃だった。
和歌山県出身の小野田元少尉の生存は、とっくに確認されていながら、日本政府の救出作戦はことごとく失敗してきた。それだけに、この奇跡の生還を多くの人たちが歓迎した。列島は沸き、ニュースは地球を馳け巡った。
急拠設営された記者会見場は、ルバング島の山腹にあるフィリピン空軍のレーダー基地。雑草が茂るグラウンドに架設の電灯がともった。
待つこと3時間。漆黒の闇の中から、元少尉は古びた戦闘帽と軍服で身を包み、軍刀を左手に持って現れた。鞘は今にもボロボロに朽ちようとしている。しかし、柄(つか)にはしっかりと白布が巻かれていた。
会見は元少尉の「儀式」で始まった。直立不動。熱風を切り裂くように右腕を掲げた。肘を45度にピンと張り、私たち日本の若い記者たちに敬礼した。絵になる。カメラのフラッシュが激しく光る。
そして、記者たちの質問には、一人一人正対して答えていった。さらに驚いたのは服装がきまっていたのだ。
私が書いた当時の記事を引用する。
《軍服はつぎはぎの手製である。しかし、ほころびはすべて繕われている。まるでアイロンでもかけたように、節目さえついている。まにあわせにつけたボタンは、白、黒と色違いだが、だらりと緩むことなく、しっかりとついている》
終戦になっても、帝国陸軍からの正式な投降命令が伝わらず、29年と3カ月、青春をまるまる戦場に捧げながら、いささかも風化しない一人の日本人がここにいる。当時36歳の私は、突然出現した“武人”に目を見張った。
この毅然とした立ち居振る舞いは何なのか。どのようにして培われたのか。疑問は開封されぬままに、歳月は過ぎていった。
* * *
謎が解けたのは、それから28年もたってからだった。
嬉しい再会だった。
小野田さんが東京・大手町にある新聞社まで、妻の町枝さんと2人で訪ねてくれたのである。
早速、疑問をぶつけた。
「よく観察していましたね」
小野田さんは、静かに話し出した。
「誇りを失ってはいけません。いま、日本人に必要なのは誇りです」
そして、続けた。
「大切なのは“らしさ”です。“らしさ”というのは、自分の仕事、役割が何であるか、それをしっかりと把握し、やるべきことをキチンとやる。責任をもって遂行することです。それが誇りにつながるのです」
役所や企業、そして、さまざまの人が不祥事を起こすのは、この“らしさ”を失っているからだという。
そうか。あれは“らしさ”だったのか。あの朽ち果てそうな軍刀、端正な身だしなみ、威厳にみちた立ち居振る舞い。あれは帝国陸軍軍人としての、日本人としての、いや、小野田寛郎としての“らしさ”を、形で表現したものだったのだ。
祖国の繁栄も知らずに30年、孤独な戦いを続けながらも“らしさ”を磨いていたのだろう。
最近は東京とブラジルとの二重生活になった。正月をはさんで、日本が寒い時期は灼熱の地で暮らす。
ブラジルでは牧場主であるだけではない。地元、南マットグロッソ州の名誉州民であり、日本人移民が集う地域日系人会の会長もつとめる。
東京では「小野田自然塾塾長」。夏になると、福島県の自然の中でのキャンプ活動を通じて、子どもたちを鍛えている。スタートして17年、体験した子どもは2万人を超す。
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牧場の入り口近くに建つ古びた木造平屋が、事務所を兼ねた母屋である。軒下の広い土間には大きなテーブル。ここが食堂だ。
滞在9日目。明日はお別れだ。いつものように、夕食後のコーヒーを飲みながら語りあう。夜空には大河のような天の川、その向こうで南十字星がきらめく。
「不撓不屈」。小野田さんが一番好きな言葉である。困難にあたってもひるまず、くじけない。この文字を背負って、南の島を生き抜いた。「不撓不屈」は、小野田さんを支える“らしさ”の背骨でもある。53歳で挑戦した「FAZENDA ONODA」も、その産物だろう。
それでもなお、“らしさ”を追求する小野田さんの戦いは、終わりそうもない。
でも、何故そこまで戦い続けようとするのだろうか。
「自然の中で暮らしたかっただけですよ。その気になれば、どこででも食っていけますからね」
そう言うと、小野田さんはいたずらっ子のように笑った。
それは裏を返せば、「オレは戦争屋じゃあない」ということだろう。確かに小野田さんは、なんでも、とことんやり遂げる。どこででも生きる力を持っている。
この牧場は、男の意地。小野田寛郎の“らしさ”の証ではないか。
私の話をじっと聞いていた小野田さんは、静かにうなずくと、満天の星空に目をやった。
やました・ゆきひで 産経新聞社顧問 1937年横浜市生まれ 早稲田大学卒 62年産経新聞社入社社会部長 常務取締役 96年日本工業新聞社代表取締役社長 03年退任