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「日米同盟」うたい込み余話(野村 彰男)2006年7月

焼け石に水だった「米側見解」
小泉首相とブッシュ米大統領との首脳会談は、「新世紀の日米同盟」と題した共同文書で「世界の中の日米同盟」を発展させる考えをうたい合って終わった。これを受けて各紙社説に踊った、「同盟一本やりの危うさ」(朝日)「『盟友』依存超えた関係構築を」(毎日)「『同盟の深化』で広がる外交戦略」(読売)などの見出しを追いながら、私はしきりに25年前に行われた日米首脳会談の思い出と重ね合わせていた。

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1981年春。1回目のワシントン勤務も2年近くなって、日々のホワイトハウスや国務省、議会の取材が面白くなっていた。前年11月の大統領選挙で、共和党保守派のレーガンが民主党現職のカーターを破り、新政権が船出したばかりだった。カーター政権後半は、ソ連のアフガニスタン侵攻やイランのホメイニ革命と在テヘラン米大使館人質事件など、その影響が今日の国際情勢にまで尾を引く歴史的事件が相次いだ。失墜した「西側の盟主」米国の威信を回復してほしいという米国民の期待を背に、政権についたレーガン大統領は「強いアメリカ」を唱えてソ連との対決姿勢を鮮明にし、「冷戦激化」がいわれていた時期でもある。

そんな中、鈴木善幸首相が5月上旬に訪米することになった。政治部出身のワシントン特派員にとって、首相訪米は一大イベントである。

その1年前には、大平正芳首相が米、メキシコ、カナダを歴訪。最後の訪問地バンクーバーで、多民族国家ユーゴスラビアをまとめていた大物チトー大統領死去の報を受けそのまま訪欧、葬儀に参列してから帰国した。疲れた大平首相を待っていたのは国内政局の急転だった。内閣不信任案の可決、衆院解散、総選挙、そして選挙戦さなかの大平首相急死へと続いた激動の政局を、東京から二日遅れで届く新聞で追う日々が続いた。

政治部で自民党の宏池会を持ち、当時の派閥会長である「お父ちゃん」こと大平幹事長を担当し、大平内閣が誕生してほどなく赴任していた私にとって、「大平首相急死」は信じられない出来事だったし、後継首相に善幸さんが就いたのも驚きだった。

善幸さんとレーガン大統領は、人をそらさず同い年という以外にあまり共通点はなく、むしろハトとタカなど違いの目立つ政治家といえた。両政府がいかに振り付け、どういう出会いとなるか興味深かった。

朝日新聞からは、先輩の故中島達郎記者が同行してくることになり、「情報よろしく」という電話があった。霞クラブで一緒に日中国交正常化交渉の取材に駆け回った仲である。
 日米首脳会談には共同声明がつきもので、外交当局は毎回、両国の関係を象徴的に表現するスローガンづくりに腐心する。

80年の大平訪米では、首相が東西冷戦の重荷を背負って苦しむカーター大統領に「共存共苦する」と連帯を表明して感激させ、大統領は日米の「実りあるパートナーシップ」を称えてこれに応えていた。

ポトマックの桜もとっくに散ったころ、親しい国務省の日本担当者に鈴木・レーガン会談の準備状況を取材、「今回の共同声明では日米パートナーシップにどんな形容詞をつけるのか」を尋ねた。すると「パートナーシップではない。今回はアライアンス(同盟)だ」という答え。意表を衝かれる思いだった。「どうかな。日本側が国内の反発を警戒して受けつけないのではないか」とさぐると、彼は事もなげに「いや、もう日本側とも合意した話だ」と言う。

確かに、大平首相は79年の訪米の際、歓迎式典あいさつですでに米国を「同盟国」と表現していたし、ソ連のアフガン侵攻後の80年訪米のときは、「西側の一員」として対米協調姿勢を鮮明にしてもいた。安保条約を結び、日本に多くの米軍基地を抱える両国関係を「同盟」とうたうことに何の不思議もない、という米側の考えは理解できないではなかった。ただ、安保や憲法をめぐって、用語にも神経を砕くデリケートな日本の国内論議の積み重ねを取材してきた皮膚感覚とでも言おうか、「日本側がよく踏み切ったな。すんなりいくのかな」という思いがよぎった。

この情報は同行記者の手で記事に、と考え電話で伝えた。すると受話器の向こうの中島記者も、「同盟?ホントかね」と問い返してきた。大平首相が挨拶で口にしているにせよ、共同声明となると重みも違う。「同盟」とうたうことに、ひっかかりを感じたのは中島さんも同じだったのだろう。しかし、ほどなく彼から、「伊東さんにぶつけたら、確かに君の情報通りだったよ」という電話があった。故伊東正義外相のことである。大平さんの腹心中の腹心であった伊東さんとすれば、大平さんが表明ずみの「同盟」を共同声明に盛り込むことに何の異存もなかったに違いない。

この情報は、鈴木首相一行の出発を翌日に控えた5月3日になって、中島さんの手になる「日米関係『同盟』と表現」という横カットと縦見出し3本の大きな記事として朝日新聞朝刊一面トップに載った。リードの文中に、珍しく「同盟」(alliance)と英語表記が添えられていた。

ニューヨーク経由でワシントン入りした鈴木首相は、7日に第1回の首脳会談に臨んだ。翌8日は、第2回会談に続いてナショナル・プレス・クラブで講演し、「日本周辺数百カイリ、航路帯(シーレーン)にして千カイリ」を防衛すると表明した。すべては順調に運んだかに見えた。

けれど、この日、訪米締めくくりの記者会見に臨んだ善幸さんは、「日米同盟」をめぐる質問に「同盟は軍事的意味合いを持つものではない」と繰り返した。伊東外相辞任へとつながる激震の発端である。

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外相辞任に至る帰国後のてん末は、すでに様々に記録されているのでそれらに譲るが、太平洋の向こうで広がる波紋に困惑したのは米政府である。「だんまり」を決め込むわけにもいかないと判断したのだろう。12日になり、国務省から私に「ホルブルック国務次官補から米側の考えを説明したい」と電話が入った。

あれこれ想像をめぐらせつつ国務省に急ぐと、「次官補は急な会議に呼ばれたから」とジャパン・デスクに案内された。そこには二人、なじみの顔がメモを手に待ち構えていて、「これはあなたにだけ伝えるのだから」と断りつつ、①日米はすでに実態として米欧とあまり差異のない同盟関係にあった。これまでそれを形容する表現の方が遅れていたもので、今度ようやく実態とレトリックが一致したのだ②軍事はあくまで同盟の一要素であり、専守防衛をいう鈴木首相の「ハリネズミ」論に異存はない③同盟に軍事的意味ばかり読み取ろうとすることは、米政府の意図を誤解するものだ、などの見解を読み上げた。

総局に帰ると、すぐ原稿にとりかかったのはいうまでもない。米政府の考え方はきちんと読者に伝わる方がよいと、東京には目立つ扱いを求めた。「現状追認に過ぎぬ 米側の見解」という長行の記事は14日付の朝刊3面に4段で扱われた。決して小さな扱いではなかったが、同じ面のトップには「解釈に揺れ日米同盟」という首相と外務当局の間に広がる溝を伝える大きな記事があり、まさに焼け石に水。それから二日後、伊東外相は辞任した。

中日新聞の宇治敏彦さん(現専務、当時は東京本社政治部次長)の『鈴木政権・八六三日』(行政問題研究所)で、私は善幸さんがこの訪米を「平和で活力ある国際社会を目指す日米関係」というキャッチフレーズで構想していたことを知った。「和の政治」を説きハト派を自任してきた善幸さんとすれば、レトリック上でも、自分の手で「同盟」への歯車を一つ回したとは認めたくなかったのだろう。

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ブッシュ大統領のイラク政策を支持し、サマワに自衛隊を派遣し、沖縄の海兵隊移転では巨額負担を決め、と米戦略のジュニア・パートナーの役割を何のためらいもなく果たしてきた小泉政権のいまから振り返るとまさに今昔の感がある。だからこそ、「同盟」の2文字に抵抗感を持ち続けた善幸さんに、日本の今がどう映るかを聞いてみたい気がする。

のむら・あきお 1943年生まれ 67年朝日新聞入社 政治部員ワシントン特派員 アメリカ総局長論説副主幹 総合研究センター所長など 03年から05年まで国連広報センター所長 現在 早稲田大学大学院客員教授
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