ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


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青瓦台からの“使者”(小井土 有治)2006年5月

戻ってきた質問状
人生には多くの出会いと様々な驚きがある。私は1961年3月に大学を卒業し、翌月には日本経済新聞社の「政治部記者」になり、首相官邸の記者クラブに配属された。日本を高度経済成長時代に導いた池田内閣時代で、主な仕事は官房長官の定例記者会見に出席するほか、〝首相番記者〟 として官邸や首相私邸での来訪客を見届け、話を聞くことであった。当時の池田番記者は首相私邸での見張り役が夜の10時ごろに終わると、今度は大平官房長官の私邸に夜回りをするのが慣例だった。

4月2日、初めての番記者の任務を終えて大平邸で官房長官に名刺を差し出してあいさつし、各社の官房長官担当記者団とともに懇談の席に加わった。その4日後、2回目の懇談に参加した際に、大平長官が小生に近づいてきて「ああ、小井土君」と呼びかけてきた。たった2回目の出会いなのに、新米記者の名前を覚えていてもらったことが最初の大きな驚きだった。「アー、ウー」を連発して話の本筋がつかみにくい大平長官だったが、総選挙で多くの有権者を引き付け、手強い政治記者を味方にする秘密を知った感じがした。

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2回目の大きな驚きというか、奇妙な体験をしたのは、バングラデシュ独立戦争を取材したニューデリーに次いで、2度目の海外勤務をした1970年代後半のソウル特派員時代である。当時は「一人独裁」などと韓国のマスコミや野党の金大中、金泳三両氏(いずれも民主化後に大統領に就任)などをはじめとする反体制派から厳しく批判されていた朴正煕大統領が青瓦台(大統領官邸)で絶大な権力を握っていた。

筆者が送稿した当時の記事を読み返してみると、次のように韓国では民主勢力が激しく弾圧されていたことが歴然としている。

「金大中氏、禁固一年 ソウル地裁」(1975年12月)、「国家安保を最重点 朴大統領年頭会見」(76年1月)、「朴政権の退陣要求 韓国民主勢力が救国宣言」(同年3月)、「金大中氏らを連行、尹善氏(元大統領)も取調べ 『民主救国宣言』問題」(同)、「民主救国宣言 (大統領)緊急措置九号に違反 金大中氏処罰を表明 韓国首相」(同)、「維新憲法は撤廃せよ 尹前大統領、朴政権を批判 救国宣言公判」(同年6月)、「北朝鮮兵と衝突 米将校二人死ぬ」(同年8月)、「金大中氏に懲役八年 民主救国宣言 ソウル地裁」(同)、「金大中氏らに減刑判決 控訴審で懲役七年 民主救国宣言事件」(同年12月)、「(詩人の)金芝河氏に懲役七年」(77年1月)、「金大中氏ら実刑確定 大法院が上告棄却」(同年3月)、「新たに『民主救国憲章』 金大中氏らの実刑に反撃 尹氏ら発表」(同年3月)。

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現在は民間の「韓流ブーム」と裏腹に日韓両国の政治的関係は冷却化しているが、当時の両国関係も険悪な雰囲気に包まれていた。当時、両国関係は東京で起きた金大中氏の拉致事件で悪化していたが、これを決定的にしたのは、筆者が赴任して1カ月半後の光復記念日(74年8月15日)の式典で、在日韓国人が大統領を狙って撃った流れ弾で大統領夫人の陸英修女史が非業の死を遂げたことである。凶器のピストルが大阪の交番から盗まれたものだったことが反日運動を一気に燃え上がらせた。標的の日本大使館は、連日のように日本政府の公式謝罪を求める多くのデモ隊の大波に取り囲まれた。

日経ソウル支局は日本大使館の隣の韓国日報ビル内にあったので、筆者は毎日、血気にはやるデモ隊の中を通り抜けて支局に出勤しなければならなかった。もっとも、「最前線の現場」にいたわけで、「大使館前、男が割腹」の状況や「『日の丸』引き下ろし引き裂く デモ隊、大使館に乱入」(74年9月)などの重大事件を自分の目で直接見ることができた。他紙の特派員から電話で情報提供を求められるという経験もした。

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大統領の記者会見は日本人記者に門戸が開かれていなかったが、こうした状況だったから、「一人独裁」と呼ばれる「一人」に直接会い、質問したいという願望がふくらんだ。赴任して間もなく経済担当の副総理や外務部長官と単独会見したことはあったが、支局の窓から毎日眺めていた青瓦台は「近くて非常に遠い存在」だった。門戸を閉ざす理由の一つは「日本の言論は偏向している」ということのようだったが、そうなると取材する側は門戸を開放している反体制側に情報を求めざるをえなくなるという面もあった。金大中氏の自宅には取材で何度も訪問し、金泳三氏や尹元大統領には自宅に招かれたこともある。尹元大統領がご馳走してくれた自家製の開城キムチの味は格別で、うまさがまだ舌に残っている感じもするほどである。

特派員という身分では朴大統領と会見することが不可能なのが分かったので、次善の策を考えることに方向転換することにした。そこで考えついたのが、大統領宛に韓国の国内問題や日韓関係についての質問内容を書いた手紙を出し、書面回答を得たいということである。慎重に考えて質問状を書き、助手に翻訳してもらった書状とあわせて封書に入れて発送した。赴任直後から「日本の特派員監視」という任務を遂行するためだろうと思うが、毎日のように支局に顔を見せる韓国中央情報部(KCIA)の部員の「皆勤」ぶりには変化はないが、青瓦台からも全く新しい風は吹いてこなかった。

天災は忘れたころに起きるというが、大統領からの書面回答へのはかない期待を諦めようと支局の窓から青瓦台を眺めていたところ、一人の韓国人が部屋に入ってきた。身分は青瓦台の役人だという。一瞬、「おお、願いがかなったか」と期待したところ、青瓦台からの使者の話は期待とは程遠い予想外なものだった。

彼はおもむろに一通の封書を差し出して、丁重に「受け取ってくれ」と言うのだった。その封書を見ると、なんと筆者が朴大統領宛に発送したものだった。「えー、一体どういうことなのか」と思ったが、質問状が青瓦台に届いたのは確認できたわけである。一見したところ、封書は開封もされていないようだったが、いったん出した封書を受け取るわけにはいかない。「青瓦台のゴミ箱にでも捨ててください」と受け取りを拒んだが、相手は一向に引き下がらない。ついに根負けして、「受け取らなければ、青瓦台の使者にされた下級職員がつらい立場に立たされるのだろうな」と同情して、封書を受け取った。

その後、保存すべきだったかもしれない封書を支局のゴミ箱に投げ入れた。もう再び返送されることはない。この体験を、名外交官でソウル大使も務めた亡き須之部量三さんを偲ぶ会で再会した往時の特派員仲間に話したところ、「質問状が青瓦台に来たこと自体を否定したかったのだろう」との答えが返ってきた。筆者の思いと完全に一致である。

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独裁的政権の背景には「半島の冷戦」という事情があったが、日韓国交正常化、「漢江の奇跡」と呼ばれた韓国経済の復興・発展を成し遂げたのも朴大統領である。昨年9月、日本労働ペンクラブ訪韓団の団長としてソウルを訪れ、韓国労働ペンクラブの方々や労使関係者にお世話になったが、日本と同じく、成熟国の悩みであるいわゆる「非正規職」の増大、格差問題や少子化問題が焦点であることが強く印象に残った。

去る3月9日、日本記者クラブは韓国の野党ハンナラ党の朴槿恵代表を招いた。にこやかな笑顔を間近に見て、「青瓦台令嬢」が若くして「ファーストレディ役」を健気にこなした姿が脳裏に浮かんで感慨深かった。だが、両親をともに非業の死で失った深い悲しみを乗り越えて政治の世界に生きる強い意思も感じさせられた。

女性政治家としてはネールの娘で非業の死を遂げたインディラ・ガンディー首相に会ったことがあるが、韓国でも初の女性大統領が登場するのであろうか。

こいど・ゆうじ 1961年日本経済新聞入社 政治部次長 論説委員 早大講師 日本労働研究機構理事を経て 現在 労働評論家 日本労働ペンクラブ代表 東京都労働委員会公益委員 連合総研監事 日本人材派遣協会理事も兼ねる 著書に『人材派遣業法』『外国人労働者』『連合運動史第三巻』など
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