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日英“草の根”交流計画を追う(有賀  忍)2006年4月

若手英語教師の「日本発見」
これは華やかな取材合戦の裏話ではない。長い伝統を持つ日英交流のはるか裾野で、草の根交流の役割を担った英国の若者たちをめぐる物語である。

私は1973年から79年まで6年間英国に滞在したが、その間常に感じていたことは、日本人が思っているほどに一般の英国人は日本のことを知らない、あるいは関心がないということだ。

78年に訪英した当時の園田外相とオーエン英外相との間で「日本片思い談義」というのがあった。日本が明治以来、英国の制度を取り入れ、その文化に並々ならぬ敬意を示しているのに、そのわりに英国の対日関心は冷淡ではないか、という議論だ。確かに一般的風潮はそうではあったが、そんな中で、ぞっこん日本に惚れ込んで交流活動に打ち込んでいる親日家も決して少なくなかった。

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その一人、ニコラス・ウォルファーズ氏は、日英両国政府を動かすほど実行力のある親日家だった。当時、サッチャー保守党の重鎮、ウィリアム・ホワイトロー副党首(のち内相)の若手政策ブレーンとして活躍するかたわら、日英交流のボランティア活動に従事していた。彼とは共通の友人を介して知り合い、大いに意気投合して親交を重ねていたが、その彼から77年のある日、「新卒の若者たちを英語教師として毎年、日本に派遣する計画を進めている。協力してほしい」と誘われた。

今から30年ほど前、学校教育でナマの英語に接する機会は一部に限られていた。そうした日本社会にクイーンズ・イングリッシュの本場から、しかも優秀な若手教師を毎年定期的に送り出すという構想は、日本にとって願ってもない朗報だ。日本人特派員たるもの否応あるはずはない。

計画はニコラス主導のもとに着々と進められ、78年、日本政府がスポンサーとなった英人教師の日本派遣事業がスタートした。人々は推進者の名に因んでこれを「ウォルファーズ・スキーム(計画)」と呼んだ。同年9月、英外務省と日本大使館で、オックスフォード、ケンブリッジをはじめ全国各地の大学から選び抜かれた派遣教師第1陣22人の歓送会が開かれた。

私も出席しその壮途を祝したが、その中にアントニー・ニューエル氏がいた。誠実な人柄で日本に対する思い入れもかなり強かった。私は彼と日本での再会を約し、同時にニコラスとの約束を果たすべく、この計画を引き続き日本でフォローアップするための協力を彼に要請した。

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翌79年私は帰国、日本記者クラブで埼玉大学講師となっていたアントニーと再会した。後続の英人教師陣も次々に全国の高校、大学、民間企業へと散って行ったが、私は彼との交流を通じ、この計画がネイティブによる英語教育という本来の使命以上の波及効果を及ぼしていることを知った。

彼らは皆が皆、必ずしも日本に関心があって応募してきたわけではない。経済的理由もあったろうが、ともあれ異文化との相克の中で彼らは徐々に日本への理解と愛着を深め、任期を延長して滞在する人、いったん帰国して自費で再来日する人、そのまま居残って日本企業に就職する人など多数の親日、知日派集団を生み出す結果となった。同時に、彼らを送り出した親族、友人たちの関心も当然日本に向けられ、対日理解の輪がさらに広がった。一方、彼らと接する日本人にとっても、国際社会に視野を広げる絶好の機会となった意義は極めて大きい。

この動きに拍車をかけたのは、彼らが親睦団体「按針会」を結成したことだ。事務局長にはアントニーが就任した。会の名称は日本に初めて上陸した英国人ウィリアム・アダムス(日本名三浦按針)に因んだもの。現役教師や帰国メンバーが連絡を取り合い、日英姉妹校の縁結びなど日英交流のボランティア活動を開始した。日英両国に散った“一粒の麦”が見事に実を結び始めたのだ。
 
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私はここでウォルファーズ・スキームの成果を総括するため、英人教師による座談会を2度にわたり企画した。主宰は当時、時事通信が発行していた「週刊時事」。批判精神旺盛な彼らはこの席で日頃の思いの丈を存分に吐露し、話し合いは大変な盛り上がりをみせた。

私たち主催者側がここで気が付いたことは、彼らの目に映った日本が我々に自らの国を再発見する貴重なヒントを与えてくれているということだった。私たちはこの宝の山をもっときちんとした形で記録し残すべきではないかと考えた。

そこで彼らの意見や体験を持ち回りで執筆してもらい、同誌の連載とする次なる企画を立てた。原稿の手配はアントニーが、翻訳は私が担当した。執筆陣には15人が参加、こうして「日本発見&再発見」の連載がスタートした。

内容は手前みそながら彼我のカルチャーギャップのいかに大きいかを思い知る、面白い連載となった。

日本の受験戦争を「どこか狂っている」とヤリ玉にあげたある筆者は、自国の大学事情を紹介。入試ではペーパーテストより面接を重視し、受験生が物事を深く思考する能力を持っているか、知的好奇心が旺盛かなど、彼らの可能性を見極め、大学教育もその「深く思考する」ことに磨きをかける。知識一辺倒の日本の場合とここが著しく異なる。結果論として日本にノーベル賞受賞者が少なく英国に多いのは、こうした基本的な教育姿勢に原因があるのではと指摘した。

別の筆者は「日本語は途方に暮れるほど豊かだ」と絶賛する。早い話、基本動詞のisや自分を示すI、女王陛下も召し使いも等しく使う言葉だが、これに相当する日本語はまさに〝言葉の宝庫〟。とくに四季の移り変わりに伴う自然現象を繊細な感覚でとらえた豊富な表現は英語で伝えることは至難の業と、誇り高きジョンブルもお手上げの態だ。

当の日本人、自国語の豊かさにそれほどの自覚があるだろうか。日本を「世界に比類のない贈答社会」と評した筆者もいる。一応その効用は認めながら過度の商業主義に毒されているとし、特にお中元とお歳暮は家計をあずかる主婦にとって「二大季節的公害」と断じた。

巷に氾濫するカタカナ英語や横文字は彼らの格好の餌食だ。スポーツ店の看板にAthlete's Foot(競技者の足)とあった。なるほど感じは出ているが、店主は知ってか知らずか、英語では実はこれ「水虫」のことだ。

変わったところでは、オックスフォード大の初の女性コックスをつとめたスー・ブラウンさんがオックス・ブリッジ対抗試合「ザ・ボートレース」と早慶レガッタ、テムズ川と隅田川の比較検証を試みているのが興味を引いた。

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連載は一年半に及び反響は上々だった。K出版社から英語の副読本にしたいとの申し出があり、同社から「What We Discovered in Japan」(日本で発見したもの)との表題で出版されるというおまけまでついた。

連載された「日本発見&再発見」は後に、時事出版局から単行本として出版された。この種の実体験的異文化比較論は当時珍しかったせいか、中央紙、地方紙、週刊誌の多くが書評欄で取り上げてくれ、その内容はおおむね好意的であった。

当時の「朝日ジャーナル」誌は「自分の側にしっかりした判断の核がある日本体験である」と評したが、これぞまさしく「大学で深く思考することを学んだ」成果ではないかと思った。「黄昏のロンドンから」を書いたエッセイストの木村治美氏は「筆者たちは日本を語りながら常に母国と比較の上で判断している。そして自分の国を見る眼が誠に客観的」とした上で「自国を語る目と同様、彼らの日本観察はどの分野でも驚くほど正鵠を射ている」と評価した。

こうした様々な書評も大変ありがたかったが、それ以上に私を感激させたのは中部地方のある図書館からかかってきた一本の電話だ。用件は「目の不自由な人たちに読んで聞かせたい。ついてはテープに吹き込む許可を頂きたい」というものだった。



あるが・しのぶ 1957年時事通信入社 政治部次長 ロンドン支局長 海外部長 国際本部長 監査役 顧問 退任後 東京地裁民事調停委員 現在 (財)新聞通信調査会・(財)同盟育成会・同盟クラブ理事


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