ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


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松本清張(浅井泰範)2004年10月

清張作品:『特派員』のモデルになった私
新聞記者は、書くことが仕事である。なのに、私は、自分のことを、書かれてしまった。 
松本清張さんに『特派員』という短編がある。文芸春秋社の文芸雑誌『オール読物』の1979年2月号に出た。

筋書きは、東京・有楽町に本社があるR新聞の外報部員石野和夫が、1968年2月に、緊迫するベトナム戦争の背後にあるラオス情勢の取材に特派されたことから始まる。

石野は、世界的に問題視されている北ベトナムから南ベトナムへのホーチミン・ルートをさぐるため、単身ラオス南部へ入る。米軍は激しい爆撃を繰り返しているが、北は、ホーチミン・ルートは幻影だといい、西側の記者もだれひとりとして、地上で確認した者はいなかった。  ラオス人の通訳兼道案内を雇い、ラオス政府軍に接触しながら、北側が爆破した橋を見て、地雷の敷設された地帯に行き、米軍の爆撃音やそれを迎撃するミサイル音が近いことを確かめた。命がけだった。石野は写真と記事を空港まで持っていき、東京に航空便で送る。電報局は、写真電送を許さなかった。

なのに、何週間待っても、東京からサンクス電報が来ない。サンクス電報というのは、本社が特派員の記事や写真を新聞に載せたときには、「LAOS JOUSEI CHOKAN 5DAN TKS(ラオス情勢の記事を朝刊に見出し五段で掲載した ありがとう)」といったふうに打つ採用電報である。
必死の取材を無視されたと感じた石野は、外報部長を呪詛し、デスクを罵り、「マージャン卓を囲み、飲み屋でオダをあげている奴らに、世界が分かるか」と叫ぶ。  作家のフィクションの部分は、もちろんある。しかし、この石野和夫は、間違いなく私であった。

というのは、厳密にいえば、1968年の2月ではなくて、3月に、私はベトナム戦争取材のために東南アジア特派を命じられて、バンコクからラオスの首都ビエンチャンに入り、すぐ南部のサバナケットを拠点に、ホーチミン・ルートへの接近を試みた。

36年も前のことだ。いまから思えば、たったひとりでよくぞ動き回ったとの感慨もないではない。だが、当時は、「ホーチミン・ルートの存在を認めない朝日新聞」などとも言われていたのだ。私は、なんとしても存否を確かめたかった。内から突き上げてくる特派員としての責務に、私は完全にとりつかれていた。  ビエンチャンに帰ると、朝日新聞の大先輩、森本哲郎記者からのメモがあった。同じホテルにいるという。さらに驚いたのは、森本さんは、松本清張さんと一緒だった。ハノイへ入るんだが、飛行機が飛ばずにここで2週間近く足止めを食っているのだという話。

松本さんと森本さんにとって、私の南部ラオス報告は、退屈しのぎの恰好の話題となった。私も、調子に乗った。なにせ朝日人の超大物であり、これから北ベトナムに乗り込んで首相との会見を約束されている時の人だったからである。

だが、松本さんの質問は、私の心のヒダを舐めつくし、なにもかもえぐりだすものだった。卒業した大学や学部を聞かれ、外報部へ来るまでの社内履歴も尋ねられた。さらには、朝日新聞の社説がホーチミン・ルートの存在を認めるのに消極的なのは、この男が牛耳っているからだと、ある幹部の実名をあげる。私の現地に飛び込む勇気は了とするが、内外の論争に立ち向かう覚悟はできているかと迫られる。

数日後、松本さんたちは、ハノイに向けてビエンチャンを去った。ひとり残された私は、なにか、大きな疲れを感じた。サンクス電報は届かなかったが、実際には、私の南部ラオス取材の記事と写真は、1968年3月23日付の夕刊に、大きく掲載されていた。

ところで、私は、あの執拗な、粘液質的とでもいうべき松本さんの口頭試問に合格したらしい。それから以後、松本さんとの交信は続いた。

ほんとうに有り難いことだと思う。松本さんの『ハノイで見たこと』の末尾には、ビエンチャンでの私との出会いとやりとりが書かれているし、ヨーロッパを舞台とした『黒の回廊』に登場する「ぼさぼさ頭でがらがら声のA新聞・浅倉特派員」というのは、私がモデルらしかった。私は、特派員として、2度ロンドンに赴任したのだが、2度とも滞英中に松本さんがロンドンへ来られた。

朝日新聞の社内人事には、異常なまでの関心があり、私が異動するたびに励ましの電話や手紙が来た。と同時に、作品の発想に関する疑問や判断についての意見を求められることが増えていった。  特徴ある声で、必ず「松本です」で始まる電話が、朝早く、夜遅く、かかってきた。とくにすごかったのは、米ソ冷戦終結からソ連崩壊へと進んだ1989年から91年にかけての時期である。松本さんとの電話は、長いときには1時間近くにも及んだが、世界の激動の真因に迫ろうという意欲は尋常ではなかった。そのころ、松本さんは、80歳を越えていた。

時は流れた。いまの新聞特派員で手書きで原稿を書く者はまずいない。松本さんが興味を抱いた「サンクス電報」も、10年ほど前から消えた。朝日新聞の現役諸君によると、特派員は衛星携帯電話やパソコンを持ち、原稿を送るし、本社からの採用通知も、ホテルやオフィスに、記事の掲載紙面がそのままファクスで送られるのだという。

今年8月、東京の真夏日連続記録更新が騒がれていた猛暑の午後、私は、八王子市の大善寺・富士見台霊園にある松本さんの墓を参った。

どうして、1968年のビエンチャンでの体験をもとにした「特派員」を、10年以上もあと、しかもベトナム戦争が終わったあとに発表されたのですか。 あの「特派員」は、雑誌に掲載されただけで、単行本に収録されなかったのは、なぜですか。

松本さんの生前、私が聞くのを怠った問い掛けなのだが、考えてみれば、これも松本さんが残したミステリーなのかもしれない。

命日は、8月4日。今年は、13回忌がいとなまれた。合掌して、私は、松本さんに報告した。  「こんどは私が、日本記者クラブの会報に、松本さんのことを書きます」  真っ赤なサルスベリと蝉しぐれ。墓前に立っているだけで汗がじっとりにじむ。ビエンチャンを強烈に思い出した。


あさい・やすのり 1935年生まれ 59年朝日新聞入社 ジャカルタ支局長 東南アジア・中東移動特派員 ロンドン特派員 ヨーロッパ総局長を経て外報部長 国際本部長 取締役国際担当 社史編修顧問を歴任98年退社 現在:武蔵野大学(旧武蔵野女子大学)現代社会学部教授 学習院大学 名古屋市立大学 日赤武蔵野短大非常勤講師
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