ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


私の取材余話 の記事一覧に戻る

「乱れ雲の上」の出会い(吉村 信亮)2009年9月

 ジャーナリストにとって「時の人」とのインタビューは、こちらが緊張した分だけ、印象に残ります。薄暮のベールの襞に消えほそっていく記憶の中 から、今に多少ともつながる出会いを取り出してみました。二つとも「雲の 上」での出来事です。
 
                               #

  昨年が40周年に当たった1968年という年は、ベトナム戦争の険悪化、 「プラハの春」の劇的な生と死など、極度に発熱激しい季節でした。とりわけ、アメリカの高熱ぶりが内外の耳目を集めました。

  まずベトナム戦争のエスカレーションがあります。旧正月、解放戦線ゲリラがサイゴン(現ホーチミン)の米大使館などを一斉に奇襲しました。ドロ沼の戦史を画するテト攻勢です。いらだつ米軍は3月、ソンミ村の住民数百人を虐殺して、文明世界を震撼させました。

  春たけなわの4月、公民権運動の立役者マーティン・ルーサー・キング牧師が、そして6月には、秋の大統領選挙に向けての民主党リベラル派唯一のホープだったロバート・ケネディ上院議員が、相次いで凶弾に倒れました。全米の黒人街に憤激の炎が上がり、反戦運動は制御が効かなくなりました。女性解放など様々な反体制運動が続きます。あまりの不人気に堪えかねて、リンドン・ジョンソン大統領は再選出馬の断念を表明せざるをえなくなるのです。

  真夏のシカゴでの民主党大会は、押しかけたデモ隊と警官隊との流血の衝突の末に、大統領候補としてジョンソン後継のヒューバート・ハンフリー副大統領を選びました。11月の本選を制したのは、打ち続く騒乱抑圧を掲げた、共和党の「法と秩序」派リチャード・ニクソン元副大統領でした。

  私が新米特派員としてニューヨーク支局に赴任したのは、その年半ば「長く暑い夏」さなかのことです。若さは慾深いというか、行きがけの駄賃さながらに、私は西海岸に取りつくと、学生運動に大きな思想的影響を与えていた哲学者ヘルベルト・マルクーゼ教授をサンディエゴに訪ねました。ロサンゼルスでは、泊まった先がロバート・ケネディ暗殺の余韻も生々しいアンバサダー・ホテル。彼が演説会場から近道を策して惨劇に遭ったキッチンは、ステンレスの床が冷たく光るばかりです。後に作家のジョン・アップダイク は「神はアメリカへのご加護をおやめになったのかもしれない」と嘆いたそうですが、確かに当時のアメリカに残された希望の星の潰えた無残さそのままの、冷血の現場でした。

  ロスの後は、テネシー州メンフィスに飛びました。キング終焉の地はうら寂しい街中の、何の変哲もないロレアンヌ・モーテル。2ヶ月前の宵に牧師が最後に佇んでいたバルコニーを見上げながら、私は「暗殺二都物語」の巡礼者の気分になっていました。

  ニューヨーク支局から見た「アメリカの熱気」のほどは今も忘れられません。あの広い車道の五番街は学生たちで埋まり、夜通し「ウイ・シャル・オーバーカム」などの歌声が響きわたっていました。若かった私は、夜が明けたら、この国に革命が起きているのでは、とさえ思いました。貧しさゆえでなく、豊かながら息苦しく、強権的な体制への不満からの__。

  「1968年のアメリカ」は、翌年夏のアポロ11号による人類初の月面着陸 の快挙という、束の間の「晴れ間」を挟んで、その後何年も続きました。ベトナムの戦火拡大は果てしなく、キング牧師亡き後の黒人運動は過激さを増すばかりでした。

  そんなある日、私はノースカロライナ州フォートブラッグを訪ねました。 神出鬼没のベトコン・ゲリラ対策の奥の手「グリーン・ベレー」特殊部隊の本拠地です。彼らの一人の「武勇伝」を聞くこと、そして、そうしたベトナム戦争の中軸兵士たちの「洗脳」の場にしようと、若者らが基地周辺に設けた「反戦喫茶店」取材が目的でした。

  その旅の道中の機上で思いがけない出会いが待っていました。プロテスト・ ソングの大御所ピート・シーガーが数席離れたところに座っていたのです。 白い鬚の長く伸びた中年男と、隣の無人の座席にシートベルトにくくられたギター・ケースと__。音楽に詳しいわけでない私ですが、直感的に、彼も「反戦喫茶店」出演のため、同じ便に乗り合わせたのではないか、とひらめきました。
 
 私がこの人の存在を知っていたのは、日本でもお馴染みの愛唱歌『花はどこへいった』の作詞・作曲者だったからです。

  <清らかな野の花が乙女の手に摘まれ、乙女が恋心を寄せる若者は勇んで戦いに行く。若者は戦い終わって土に眠る身となり、その土の上に咲いた野の花が乙女の胸に抱かれる>

  旧ソビエトの作家ミハイル・ショーロホフの『静かなるドン』の中からとったという、ウクライナ民謡の三行詩が反復するこの歌。それは燃え盛る反戦運動の主題歌とも言える、戦争の過酷さ、悲しみを哀調にくるんで切々と 歌い上げていました。

  私が近寄って「シーガーさんですか」と尋ねると、その人は軽くうなずきました。そして、騒音の高い機内での会話がノドに響くことを気遣いながらも、私を近くの空席に誘いました。「雲上の邂逅」に舞い上がっていた私は そこで何を話したか、まるで覚えがありません。ただ、脳裏に焼き付いているのは、自ら取り出した紙に日本語で「平和」と書いてくれたことです。シーガー夫人は、トシ・アーリン・オオタという日系らしい名前だそうですから、彼女から教わった漢字だったでしょうか。

  この時期のアメリカは、内に大組織の網の目に組み込まれながら、無限の 物質的繁栄を信じ、外に自らの正義を力づくでインドシナの一角まで拡張しようとする覇権国家、管理社会の極みでした。それに対して、反戦デモ隊、 ブラック・パワー、フラワー・パワー、ウーマン・パワーなど、多彩な勢力 がぶつかっていきました。アメリカの識者は、この様子をこんなふうに解説 しています。

  「社会的緊張の中から様々な運動が起こって、アメリカが第二次大戦後に 打ち固めた社会機構を根本的に作り変えようとする高まりを見せた」(トッド・ギトリン著『60年代のアメリカ 希望と怒りの日々』=彩流社刊)

  そんな騒々しいばかりの「1968年のアメリカ」の高揚の中で、ギター一本で「反体制の風」を運んだ男――機上で出くわしたピート・シーガーの、およそ油気のない横顔には、あの歌の曲調そのままに、澄んだ水面のような静けさが漂っていました。

  彼は90歳になった今も健在で、今年初めのバラク・オバマ大統領就任記念コンサートでは、古い仲間たちと『わが祖国』を歌い・奏した、といいます。心の中に生き続ける「花」を、今度は若い黒人大統領に託そうとしたのでしょうか。

                                #

  それは1974年10月のことでした。当時、ワシントン支局勤務だった私は 未明にバージニアの自宅で、東京本社からの電話にたたき起こされました。ジーン・ラロックという退役海軍少将が議会の原子力合同委員会軍事利用小委員会で「日本に寄港する米海軍艦船が事前に核兵器を降ろしてくることはない」と述べた証言記録が公表になった、というのです。このことは、だれしも薄々感じていたことですが、それが核ミサイル巡洋艦の艦長も務めたこともある元提督の口から出たとなると、大騒ぎです。衝撃的なニュースは日本で大々的に報じられましたが、その時、当の本人は旧ソビエトに出張中で、 ワシントンには不在でした。

  私は何とか本人に直接、質してみたいと思いました。10月15日午後、ニューヨークのケネディ国際空港に帰着することまでは分かったので、私はワシントンから飛んで、「迎撃」することにしました。「穏やかな初老の軍人」というイメージを勝手に抱いていた私の勘は的中です。大勢の到着客の中にそれらしい人を見つけて声をかけると、ワシントンまでの機内で話をしようと、気安く応じてくれました。

  私の質問に淀みなく答えた彼の話の要点は「核搭載の米艦船が対日配慮から、日本寄港前に、どこか外国の港に核兵器を置いてくることは技術的にありえない」ということに尽きます。先の議会証言の域を出ないのですが、彼自身の意見として、「核持ち込みの疑惑を起こさせることは好ましくない。大統領は日本への核持ち込みの意思のないことを明言せよ」とも、付け加えました。ということは、核搭載能力のある艦船の日本寄港全面中止を求めることになりますが、それでもアメリカの軍事戦略に支障はない、と言うのです。

  旅客機は30分余りでワシントン郊外のダレス国際空港に着き、私は礼を述べて、ロビーに出ました。すると、各社の特派員たちが「ラロックはどこだ」と群がっています。私は「あそこだよ」と、さりげなく指を差して、支局へ急ぎました。

  私がいい気分でおられたのは、そこまでです。先のピート・シーガーの注意ではありませんが、機内の騒音は本当に激しいのです。テープを巻き戻しても、特別にマイクを付けてもらわなかったラロック氏の声は雑音にまぎれて、ほとんど聞き取れません。同僚や助手の帰ったオフィスで、独り青くなってテープと格闘したのが、ほろ苦い思い出です。

  考えてみれば、ラロック証言は「王様はハダカ」の裏焼きパロディのようなものと言えました。だれも明言を憚ってきた「アメリカの艦船たる王様は 核なしのハダカでないよ」という単純な事実を、いとも率直に言ってのけたのでした。

  ラロック氏に続いて、7年後の1981年5月、エドウィン・ライシャワー元駐日米大使が日米両国政府間に核持ち込みの密約があったことを暴露して ラロック証言に「公的裏付け」を与えました。そして今、日本外務省の外務次官経験者らも、続々と密約の存在を認め出しています。

 ただ、ラロック氏が「核持ち込みの疑惑を起こさせないために、大統領は持ち込みなしを明言せよ」と日本人を喜ばせるようなことを付言したことは気になります。実は、彼も密約の存在を知らなかったのでは、と思われるからです。あの当時、ラロック証言をめぐり取材に駆け回った私たちマスメディア、その報道に驚いた一般の日本人はもちろん、当のラロック氏自身さえも、コトの真相から目隠しされていたのだとしたら__。

  1960年の日米安全保障条約締結時に、核搭載艦船の日本寄港などは新条約の「目玉」とされた両国間の事前協議取り決めの適用対象外という密約が結ばれていたことは、その後のアメリカ側の公文書公開によって明るみに出ました。そして、1963年4月には、現役の大使だったライシャワー氏と当時の大平正芳外相との間で「核搭載艦船の日本寄港などは核持ち込みの定義に当てはまらない」ことが秘密裏に確認された事実も分かっています。反核感情のひときわ強い日本人に「核の傘」を差しかけるという矛盾をあえて犯しつつも、アメリカの核戦略の遂行と日本人の安心感覚確保の必要を同時に満たすためには、核持ち込みの密約しか手立てはない、というのが、冷戦期の日米両国知恵者の編み出した苦肉の策だったのでしょう。

  が、情勢は変わりました。就任早々のオバマ大統領が堂々と「核なき世界」構想を打ち出しました。北朝鮮の核の脅威が日本を覆い始めています。そのうえ、自民党の「一党独裁政権」が崩れ去った今、さすがの日本外務省も密約を支え切れなくなる日が近づいているように見えます。「王様はハダカでない」と直截に言い切ったラロック爆弾証言は、35年の曲折を経た後も、日米同盟関係に刺さった大きなトゲである密約疑惑の起点として、なお生き続けているのです。
                                     (東京新聞/中日新聞OB 2009年9月記)
ページのTOPへ