取材ノート
ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。
個人情報保護法 体張り対決/城山三郎さんの私信 今開く(小川 一)2026年9月
四半世紀ぶりに一枚のはがきを手にした。作家の城山三郎さんが私(小川)宛てに送ってくれたものだ。消印は「2002年5月28日 茅ヶ崎」とある。
「お手紙などいろいろ有難うございました
私の早合点というか 思いこみ 思いちがいもあり 御迷惑おかけして申訳ありません 始めからいまに至るまで『毎日』がいちばんよくやってくれているというのが私だけでなく 仲間の定評です 皆様によろしくお伝え下さい 城山生」
畏れ多くも文壇の巨匠からおわびの手紙をいただいたのだ。私信でもあり、これまで口外はせずにいた。ただ、城山さんが07年に亡くなられてからはや20年近くになる。今回このコラムの執筆にあたり、城山さんの誠実で実直でどこまでも熱い人柄をしのぶためにも、私信のいきさつを紹介することにした。そして、城山さんがまさに体を張って警鐘を鳴らされた個人情報保護法の功罪についても改めて振り返りたい。
「メディア規制」の思惑
時計を四半世紀前に戻してみる。1999年秋、突然現れた「メディア規制」の動きに報道界は騒然となった。個人情報保護法案、人権擁護法案の策定作業が始まり、そこに政権の「メディア規制」の思惑が露骨に見えたのだった。内閣官房の官僚は日本雑誌協会に「取材を受けた側から訂正要求があるのに出版すれば民事的な責任を負う。実名で記事にする場合は本人の了解が必要だ。公人と私人の区別はしない。この法案はあなたたちの問題だ」と語った。日本新聞協会にも「もう勝手に写真を撮ったり名前を載せたりすることは許されない」「事前検閲も視野に入れる」と語り、メディアへの敵意をむき出しにした。
残念なことに、世論の風向きもメディアには厳しかった。私は当時、東京本社社会部でデスクをしていた。まだ「マスゴミ」という言葉が広がる前ではあったが、取材するたびに「メディア規制」に違和感を持つ人はむしろ少数派であることを実感させられた。法制度の専門家からは「自分は特別だから法の対象からはずせという特権意識は許せない」と言われた。「行き過ぎた取材で人の心を踏みにじるメディアは法律で縛るのは当然」と話す犯罪被害者や遺族も少なくなかった。
自ら街頭に立ち反対運動
そんな中、「表現の自由」への危機感から、著名な作家やジャーナリストが自ら街頭に立って反対運動を始めた。その先頭に立ったのが城山三郎さんだった。強力な援軍である。城山さんたちの声は、法案がすべての表現者、社会全体の問題として周知される契機になった。
紙面には、城山三郎さんの熱い言葉が光を放つように並んだ。「法案は治安維持法の再来」「自由主義や民主主義を根幹からゆるがす極めつけの悪法であり、いったん施行されてしまえば、取り返しのつかぬ恐ろしいことになる恐怖の法律である」「欲ぼけの政治家に政治を任せるわけにはいかない。国民の総力を挙げて阻止しよう」
城山さんは小泉純一郎首相(当時)に直談判もした。その際、担当官僚が語った「国民に網をかける。網は大きくかけたほうがいい」という言葉に激怒、「我々は雑魚じゃない」と言い返したという。
城山さんはテレビ朝日の「ニュースステーション」にも出演し、法案が成立したら「言論の死」の碑を建て、そこに小泉首相と全賛成議員の名を刻むと発言した。これに自民党が反発し、有力議員が「城山氏はぼけているのではないか」と中傷し、幹事長が文書でテレビ朝日に抗議する事態になった。
城山さんはひるまなかった。「(抗議こそ)言論の自由への干渉だ」と反論し、「(自民党は)法律の裏付けがなくても平然と弾圧してくる。法律ができて、国民の自由がどれだけ奪われることになるのかを考えると、恐ろしくなる」との懸念を示した。「ぼけている」などの中傷には「腹が立つことばかりでぼけている暇はない」と受け流しながら、月刊文藝春秋誌上に反論を掲載した。
「腰が引けている」と批判
さて、冒頭に紹介した城山さんの私信についてである。当時の私は担当デスクとして懸命に紙面づくりをしていた。城山さんたちと連携しながら、法案の問題点を繰り返し指摘していたつもりだった。メディア界も大同団結し、日本新聞協会はメディア規制に反対するシンポジウムを2回にわたって開き、02年4月には15年ぶりとなる理事会声明を出して法案に反対した。
だが、5月に入ると、城山さんから「腰が引けている」「他人事のように考えている」などメディアへの批判的な言葉が聞かれるようになった。読売新聞が政府案の骨格を維持した形で修正試案を公表したことへの反発もあったようだ。私は、あわてた。城山さんと一緒につくってきた隊列を崩すわけにはいかない。メディアの一員として一致団結して報道を続ける決意を手紙にしたためた。その返信として届いたのが、今回紹介したはがきだった。
偶然のことだが、消印にあった「5月28日」は、毎日新聞の大治朋子記者が防衛庁リスト問題を特報した日でもあった。防衛庁が情報公開請求者の身元を独自に調べてリストにしていた問題は「官に甘く民に厳しい」法案の歪みを浮かび上がらせた。朝刊の特報を見た担当官僚の一人は「もうこれで法案は通らない」と語ったという。その言葉の通り、法案は廃案となり、メディア規制にあたる部分を削除、適用除外とした新しい法案が出し直され、翌03年5月に成立した。城山さんとメディアの共闘は、一定の成果を上げることができた。
徹底的に観察、凝視、メモ
ただ、「国民に網をかける」法律の問題点がすべて解消されたわけではなかった。
法律は、社会の風景を大きく変えていった。名前や住所といった個人情報の扱いに過剰な委縮が起こり、企業をはじめ町内会や学校といった生活の場からも名簿が消えていった。災害時や緊急時に人々を救う情報の共有が滞る深刻な事態も起きた。「個人情報保護」を口実にした政治家や役人の不祥事隠しも相次いだ。法律の改正は続き、26年通常国会で成立した法律では、記者の情報取得が対象にされかねない罰則規定(第180条)が書き加えられた。共謀罪、特定秘密保護法をはじめ表現の自由を脅かしかねない法制度や規制も相次いでいる。
さらに、SNSやAIの登場は、四半世紀前には想像もできなかった情報環境をつくり出し、表現者や記者を苦しめている。偽・誤情報が蔓延し、誹謗中傷が常態化し、個人攻撃を呼びかける「犬笛」という言葉まで広がった。記者の名刺をネット上にさらす政治家も現れている。
天国にいる城山さんは、今の惨状をどのように見ているのだろうか。「しっかりせんかい」というお叱りの声が聞こえてきそうだ。
法律が成立した03年5月23日、城山さんは日記にこう書いている。「個人情報保護法成立にこの世からおさらばしたい思い。しかしこうなった以上は(中略)徹底的に観察し、凝視し、メモすることだ」(『どうせ、あちらへは手ぶらで行く』新潮社)
「徹底的に観察し、凝視し、メモすること」。この含蓄あふれる言葉は、城山さんが残してくれた尊い伝言である。現場の記者に届くことを願っている。
▼おがわ・はじめ
1958年京都市生まれ 81年毎日新聞社入社 浦和支局(現さいたま支局) 東京本社社会部 とうきょう支局長 横浜支局長などを経て 2008年同社会部長 13年執行役員編集編成局長 15年~22年取締役(デジタル、編集など担当) 現在は成城大学非常勤講師 共著に『個人情報は誰のものか』『情報デモクラシー』(毎日新聞出版)など
