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運転手情報 世界へスクープ/検事の禅問答 悟れず抜かれ(安尾 芳典)2026年8月

 依然として軍事政権による苛烈な弾圧が続くミャンマー情勢。2021年に国軍がクーデターで実権を握って民主的な政権を倒して以来、抵抗する市民ら多数が殺害された。ミャンマーで注目されるのは、民主化運動指導者でノーベル平和賞を受賞したアウンサンスーチーさんの動向だ。今も投獄後、軟禁状態に置かれているとみられ、健康状態や安否が懸念されている。ミャンマーの取材の焦点はスーチーさんの動向だ。

 スーチーさんが最初に自宅軟禁されたのは1989年だった。国軍は、88年に民主化運動を弾圧し、抵抗する市民らを容赦なく殺害して実権を握った。国軍の弾圧に抵抗し民主化運動に立ち上がったスーチーさんは自宅軟禁下に置かれた。

 スーチーさんはカリスマ的存在で、国民からの人気が高かった。そうしたスーチーさんを恐れた国軍はスーチーさんを自宅軟禁下に置き、国民との接触を阻んだのだ。

 スーチーさんは、日本や英国に留学し、国連に勤務をしていた。英国人と結婚し、英国に住んでいた。

 スーチーさんが久しぶりにミャンマーに帰国したのは、母が危篤との知らせを受けたからだった。

 その時にミャンマーを長期、支配していた独裁者のネウィンが辞任したのを契機に民主化運動が起きた。だが、国軍が民主化運動を弾圧し、多くの犠牲者が出た。こうした状況にめぐり合わせたスーチーさんは民主化運動を主導し国軍に立ち向かった。総選挙が実施され、スーチーさん率いる国民民主連盟(NLD)が圧勝したが、国軍はこれを無視した。

 自宅軟禁下にあったスーチーさんは91年、ノーベル平和賞を受賞し、スーチーさんの動向に世界から一層関心が高まった。

 

軍事政権トップ 解放示唆

 この当時、バンコク特派員として、ミャンマーもカバーした。ミャンマーへの入国は困難だったが、95年6月末にようやく入国ビザを得てミャンマーに入った。当時首都だったヤンゴンに到着して、ミャンマー取材でいつも利用しているタクシーに乗り込むと、なじみになった運転手が「スーチーさんが近く解放されるという情報がありますよ」と教えてくれた。

 この運転手は元教師で、英語も堪能だった。運転手の情報元は政府機関で働く運転手仲間だった。

 ちょうど7月1日は自衛隊創設記念日で、在ミャンマー日本大使館では、ミャンマーの軍事政権の要人らを招いて、記念パーティーが開かれることになっていた。そのパーティーに参加すると、軍事政権トップのキンニュン第1書記が招かれていた。スーチーさんの自宅軟禁を主導した張本人でもある。さっそく、キンニュン氏に近よった。スーチーさんの解放について直接聞いてもまともに答えてくれないと思い、「明日、バンコクに戻る予定だが、大丈夫でしょうか」と間接的に聞いてみると、キンニュン氏は「戻らないほうがいいでしょう」と答えた。スーチーさんの解放を示唆したものだと直感した。

 

スーチーさん「情報源は?」

 この情報を確認するため、当時共同通信のヤンゴン通信員を務めていたセインウィンさんに伝えた。セインウィンさんは、言論弾圧が厳しいミャンマーのジャーナリストのなかで最も信頼ができる「大御所」だった。セインウィンさんはさっそく、旧知の軍事政権の情報筋に確認を取るために動き、「解放は間違いない」と連絡してきた。これを受けて「スーチーさん解放」の記事を本社に送った。

 完全なスクープとなった。ロイター通信も共同電を転電し、世界に伝えた。報道通り、軍事政権側はスーチーさんの自宅軟禁を解除した。自宅前にあったバリケードは取り除かれ、市民らが続々と集まってきた。

 後に再びミャンマーに入り、スーチーさんにインタビューする機会があった。その際にスーチーさんから「私の自宅軟禁解除をスクープしたそうですが、どのようにして情報を得たのですか」と聞かれた。しかし、取材源の秘匿のため言えないと答えた。その際、スーチーさんにユリの花をプレゼントした。その日、自宅前で市民に向け行った演説の際にはそのユリを髪にさしていた。

 

捜査告げる次席の「嫌いだ」

 スクープを逃した苦い思いが、東京社会部で裁判所・検察を担当していた1970年代末に起きたダグラス・グラマン事件だ。日本と米国の軍用機売買をめぐる疑獄事件で、大物政治家が関与していたことから、田中角栄元首相が逮捕されたロッキード事件に次ぐ事件となった。

 79年、米証券取引委員会(SEC)が、グラマン社が自社の早期警戒機の売り込みのため、商社を通じて日本の大物政治家らに不正資金を渡していたことを告発した。5億円を収賄した大物政治家として名前が浮上したのが、松野頼三元防衛庁長官(当時)だった。

 当時、司法記者クラブに所属し、検察を主に取材していたが、当初、検察側は捜査するかどうかなかなか明らかにしなかった。

 検察は、警察と異なり、検事の口が堅く、ネタをとることは困難だった。特に政治家が絡む事件では、検察側のガードは堅かった。

 ロ事件でも特に口の堅い東京地検特捜部の検事がいた。連日の夜回りでも捜査について一切話してくれなかったことから「口なしのコーちゃん」と呼ばれていた。

 検事は記者に対して直接的には答えず、「禅問答」で受け答えすることが多かった。その禅問答をどう読み取るかが検察担当の記者側には問われた。

 当時、メディアに主に対応していたのは東京地検の次席検事で、1日1回、午前中に記者会見に応じていた。だが捜査の行方についてはなかなか話してくれなかった。

 ある日の定例会見で、次席検事が「ダグラス、グラマンは嫌いだ」と話した。私はこの話を聞き流してしまった。翌日、数社の一面トップに「東京地検、ダグラス、グラマンを本格捜査」の記事が載った。次席検事の「嫌いだ」という発言は、捜査開始を示唆したものだったのだ。

 取材の焦点は、松野氏をいつ事情聴取かに移った。検察は松野氏の事情聴取のため、都内のホテルを呼び寄せているとの情報を得た。各社とも松野氏を追ったが、このホテル内で見失った。果たして検察は松野氏を事情聴取したのか。どの検察当局に取材しても、「ノーコメントかどうかも言えません」と素っ気なかった。そこで捜査に直接かかわっていないものの、捜査の動きを把握していると見られた東京高検の次席検事の部屋を訪れた。事情聴取したかどうか直接聞くことはできないと思い「禅問答」で聞いてみた。

 

「ボールは当たった」追えず

 「松の木にゴルフボールは当たりましたか」と聞いたのだ。事情聴取の相手が松野氏だったので、「松野」の名前を想起させる「松の木」とし、事情聴取を「ボールが当たったかどうか」として、聞いてみたのだ。相手の次席検事は「そう、ボールは当たりましたね」と応じてくれた。禅問答ながら、これで事情聴取は間違いないと確信した。司法記者クラブのキャップにこのことを話し、原稿にしたいと申し出たが、キャップは「これだけでは記事にできない。もう一押し、確認してくれ」と答えた。

 結局、その後、検事からそれ以上の話を得ることができず、他社に抜かれることになった。もう一押しの取材ができなかったことが悔やまれた。

 

▼やすお・よしすけ

1970年共同通信社入社 堺支局 奈良支局 大阪社会部を経て 東京社会部 外信部 84年~89年ソウル特派員 92年~96年バンコク特派員 整理本部 新潟支局長 2000年に2度目のソウル特派員勤務などを経て 秘書室長 編集委員 論説委員

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