取材ノート
ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。
三村明夫さん 日本製鉄名誉会長、元日本商工会議所会頭/日本を憂えた経営者(加藤 修平)2026年8月
20代のころ、記者として初めて取材してから四半世紀がたった。この間、三村明夫さんに会うといつも感じる。
「私より若い」
私が素材産業の担当記者となった2001年9月は激動の時代だった。鉄鋼業も例外ではない。振り返ってみると「失われた20年」が始まっていた。鋼材価格は低迷し、最大手の新日本製鉄ですら先の見えない状況だった。
当時、私が担当していたのは鉄鋼業ではなく、非鉄金属産業だった。キャップとサブキャップの下で働く私は鉄鋼各社の記者レクには出席していたものの、常日ごろから取材をしていたわけではない。
そんな私が三村さんに最初に会ったのは、新日鉄が年末に開く役員と記者の懇親会の場だったと思う。先輩記者が「あの人が新日鉄のエースだよ」と教えてくれた三村さんは、四半世紀たった今と変わらず、すらっとした人だったと記憶している。
しばらくすると色々な「懸案事項」の取材に私も駆り出されることになり、いわゆる「夜討ち朝駆け」を始めた。サブキャップが対応できない時などに私も三村さんを追いかけるのだが、これがとにかく疲れた。自宅から愛犬の散歩にでかける三村さんの足は、とにかく速かった。
準備した質問 用をなさず
体力だけではない。当時の私は5年目ぐらいの若手記者だったとはいえ、何人もの経営者にインタビューをした経験があった。業績の見通しや設備投資の方針、組織改革などを聞き出すため、しっかり勉強して質問するのが企業担当の役目だ。
社長に就任されてからの三村さんのインタビューは全く違った。とにかく日本のことを憂い、政策のことを語られるのだ。もちろんそれが新日鉄の経営にも大きく影響するということなのだろうが、用意した質問が用をなさない私は冷や汗をかくばかり。勉強不足を思い知らされて応接室を出た。
私は取材先と長くお付き合いするのは難しいと感じることが多い。記者は2年ほどたてば担当が代わり、後任がくる。前任者が出てくることを後任は快く思わない。企業経営者は何年かたつと引退され、連絡がとりにくくなる。
三村さんとはなぜか縁が続いた。私が内閣府の記者クラブにいたとき、三村さんは政府の経済財政諮問会議の民間議員を務められた。国の政策を冷静な目で見る三村さんは適任と感じたが、後に民主党政権に移る直前のタイミングでの政府会議ではご苦労も多かったことだろう。
私が24年に経済部長になってからは、日本の政策運営について何度か貴重な意見交換ができた。
私のこと記事にしてくれた
最近は人口減少について警鐘を鳴らしている。このまま人口が減れば日本は立ちゆかなくなる。危機感は誰もが持っているが、三村さんほど将来への責任を強く感じている人は私の身のまわりには見当たらない。今の若者よりも、将来を憂えているのではないか。
若手だった私ももう50歳。ベテランどころかシニアとも言える年齢になった。それだけ三村さんも年齢を重ねられたわけだが、うらやましいほど若々しい。
そして三村さんは匿名の形だが、日経の紙面で私のことを書いてくれた。新聞記者が不祥事以外で自社の記事になることはあまりない。記事になる喜びを教えてくれた三村さんに感謝を伝えたい。
(かとう・しゅうへい 1998年日本経済新聞社入社 素材産業や霞が関の省庁の取材を長く担当 経済部長などを務め2026年から名古屋支社編集グループ長)
