取材ノート
ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。
山内溥さん 任天堂3代目社長/人様のために貢献する(石田 真由美)2026年4月
仕立ての良い深紫色のジャケットに薄茶色のサングラス。取材で初めてインタビューした故山内溥さん(享年85)は、静かなたたずまいの中にも鋭さが感じられ、緊張でボールペンを握る手に汗がにじんだことを覚えている。
京セラ、オムロン、村田製作所など、京都に世界的な企業は少なくないが、海外で最も有名な京都企業といえば任天堂だ。3代目社長の山内さんは、1889(明治22)年創業の花札メーカーを世界的ゲーム企業に育て上げた。米大リーグ、シアトルマリナーズのオーナーも務めていたので、ご存じの方も多いだろう。
早稲田大在学中の1949年、祖父の死去に伴い22歳の若さで家業を継いだ山内さんは、50年以上にわたりトップを務めた。私が任天堂を取材したのは、山内さんの社長最晩年の時期だった。
幅広い人が楽しめるソフト
当時、任天堂は新型家庭用ゲーム機「ゲームキューブ」を発売したものの、従来機種と比べ販売は伸び悩んでいた。ソニー製品の人気が高まり、一方でゲーム離れの傾向も現れ始めており、厳しい経営環境だった。
だが、インタビューした山内さんは気にしていないようだった。「ゲーム機の新製品競争とゲームビジネスを混同している」「ゲームは娯楽であり、多くの人に楽しんでもらわなければならない」。ゲーム機の高機能化競争と一線を画し、マニアックな一部ファンではなく幅広い人たちが楽しめるソフトを重視する考えだった。
それは、斬新なコントローラーを導入し、累計1億台以上を販売した家庭用ゲーム機「Wii」(2006年発売)につながった。任天堂には暴力的な内容のソフトがほぼないのも、山内さんの考えが引き継がれているのだろう。
逆境の経験 ブレない視点
山内さん自身は、ほとんどゲームをしなかったといわれる。にもかかわらず、なぜゲーム業界でヒットを飛ばしつづけられたのか。そこには、若いころの苦労があったように思う。
山内さんは30代のころ、花札やトランプ業界の現状や先行きを考え、経営の多角化に乗り出したことがある。タクシー事業、ふりかけやラーメンなどの食品製造…。今では想像がつかないが、いずれもうまくいかなかった。結果的に、祖業である娯楽品に立ち返らせる契機になった。その後、家庭用光線銃ゲームなどでヒットをつかみかけた。だが、オイルショックで大量の注文がキャンセルに。「つぶれても仕方ない」と覚悟したほど瀬戸際に追い込まれた。
今でこそカリスマ経営者といわれるが、そうした逆境の経験がブレない視点や考え方、勘を養うことにつながったのではないか。
一方で、篤志家でもあった。財界活動をしないことで知られたが、相談役だった2003年には京都商工会議所とともに「小倉百人一首文化財団」を設立。私財を投じて百人一首の展示・体験施設を建設した。京都大病院に新病棟を寄贈するなど、地元京都のためにも尽くした。ほかにも多額の寄付をしたと聞き、たずねてみたが「個人的なことなので書かんといて」と断られた。
「一人勝ち」とならないよう、人様のために貢献する。そうした京都人らしい気遣いも合わせ持つ経営者でもあった。もっと深く話を聞きたかった。
(いしだ・まゆみ 1996年京都新聞社入社 報道部経済担当 大阪支社 東京支社 論説委員などを経て 昨年10月から東京支社)
