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特別養子制度を追った日々/「子の命第一」の医師と共に(天日 隆彦)2025年5月

 1982年12月、読売新聞石巻通信部(宮城県石巻市)に着任した。入社2年目のまだ駆け出しの記者だった。ここで巡り合ったのが「赤ちゃん実子あっせん事件」で知られる菊田昇医師である。

 事件は73年4月20日、毎日新聞が朝刊一面で特報、賛否をめぐり広く国民的な議論が巻き起こった。産婦人科には様々な事情で中絶を希望する女性が訪ねてくる。当時は7カ月の胎児まで中絶が認められていた。分娩後も生存していることが多く、毒薬を注射したり、窒息死させたりすることが行われていた。出産するよう説得しても、出産の事実が実母の戸籍に残るため応じない。菊田医師は、苦肉の策として養親を探し、出生証明書には養親の名を実の親として記載した。医師法違反などに問われ罰金20万円の略式命令、医業停止6カ月の行政処分などが確定した。一方で事件が一つの契機となり新しい養子制度の検討が法制審議会で始まり、88年には特別養子制度が導入された。

 

駅近の産婦人科を度々訪問

 83年4月20日付宮城版に、「赤ちゃんあっせん 論議呼んで10年」の記事を提稿した。「特別養子制度がまとまるまで4、5年はかかるだろうが見通しは明るい」とする菊田医師の談話などを紹介した。

 特別養子制度とは、子どもの福祉を目的に、一定の要件の下では実の親子関係の断絶を認め、養子を法律上は実子と同じように扱う制度である。菊田医師は、これに加えて実母の戸籍の特別措置(二重帳簿制の下で、表向きの戸籍には出産、縁組の事実を記載しない)も求めていた。この二つの措置を併せた制度は「実子特例法」とも呼ばれた。82年9月から法制審議会で新たな養子制度の検討が始まっていたが、まだ雲をつかむような話だった。

 石巻駅近くにあった菊田産婦人科を度々訪ねるようになった。「よく勉強してください。私のところには英文も含め膨大な資料があります」と歓迎された。

 

誰も分かっていないのです

 「この問題は誰も分かっていないのです」。気になる一言だった。「何が分かっていないのですか」「生まれてくる子の生命を第一に考えることです」

 「身勝手な実母や養親の都合にばかり配慮している」等々の批判があった。この複雑な問題をめぐる議論の混迷にもどかしさを感じているようでもあった。

 当時は中国残留日本人孤児の肉親捜しが大きな話題となっていた。これを引き合いに「実の親子のつながりは大事なのでは」と質問したこともある。回答は明快だった。「実の親を探し当てて対面すると、そこで人はホッと安堵するのです。そして、安心して中国に帰って日常に戻るのです」。菊田医師の提案には、子が自身の出生の真実を知ることを可能にする工夫も盛り込まれていた。

 菊田提案を好意的に受け止める民法学者は少なくなかった。東京大学の米倉明教授もその一人だった。家族法の気鋭の専門家で影響力は大きかった。実母の戸籍の二重帳簿制を提起したのも同教授だった。教授が石巻を訪れた際、菊田医師夫妻との会食の席に私も途中からという申し合わせで招かれ同席した。今後の見通しについての教授の発言は慎重だったが、目指すところは菊田医師と一致しているようだった。

 

後輩記者の特報で褒められ

 残念ながら実子特例法関連の記事はほとんど書かないまま、北関東の次の任地に異動となった。それから半年後の85年10月14日、読売新聞朝刊一面トップ記事に目を見張った。〈「特別養子」草案まとまる 法制審小委〉〈戸籍、実子扱いに〉とある。当時の読売新聞は地方発の記事に発信地を表記しており、前文には【石巻】のクレジットが入っていた。私の後任、後輩の臼井理浩記者のスクープだった。臼井記者は編集局長賞を受賞、私は地方部長から「人脈を作ってくれた君のおかげだ」とお褒めの言葉を頂いた。大したことは何もしていないので、いささか面はゆかった。

 草案(中間試案)は、学界、法曹界から圧倒的支持を受け、87年には民法改正案が衆参両院の全会一致で可決された。しかし、出産の事実が実の母の戸籍にそのまま記載される制度は維持された。菊田医師は「幸せへのパイプが通じた」と歓迎する一方、「嬰(胎)児殺防止問題に触れることを回避したことについては、後世の批判を免れることはできない」(『ジュリスト』87年10月1日)と批判した。

 これに対し米倉教授は「未婚の母」に対する非難は大変強いので、特別養子制度そのものが葬り去られないためにも、母の戸籍上の措置は後日に譲るべきだとした(『新しい家族』86年8号)。米倉教授の当時の判断は妥当だったと考える。

 2007年5月、熊本市の慈恵病院に親が育てられない赤ちゃんを託す「赤ちゃんポスト(こうのとりのゆりかご)」が設置された。子の生命を救うための緊急避難措置と説明された。蓮田太二同病院理事長(当時)は「菊田医師のことを思えば―中略―たとえ遺棄幇助の罪にとわれようとも、やるべきことはやらなければならないと思った」(『名前のない母子をみつめて』)と述べている。厚生労働省の判断で「遺棄幇助」などの法的問題は一応クリアされた。

 この時は論説委員として「赤ちゃんポスト」を社説やコラムで何度か取り上げた。望まない妊娠や養育の不安についての相談が慈恵病院に殺到していることなどを取り上げ、社会全体で問題解決をしていくことを訴えた。

 近年、慈恵病院が進める「内密出産」が論議を呼んでいる。どうしても戸籍に出産の事実を残したくない母親がいた場合、母親の情報は医療機関の一部の者のみが把握する。生まれた子は、自治体の長が「捨て子」と同じ扱いで、母親不詳のまま戸籍を作成するというものだ。国はガイドラインを作成した上で「推奨できない」とした。子どもの出自を知る権利など、今の内密出産には課題も多い。約40年前に見送られた戸籍上の措置も含め、新しい法制度を準備する時代に入ったのではないか。

 

「不幸な人の味方になる」

 最後に菊田医師のエピソードを二つ紹介したい。石巻では、月に1回程度、地元有志が古書店の奥の間に集まり、菊田医師を囲んで談論風発を楽しんでいた。菊田ファンの酒仙の古書店主、公務員、理髪師、元全共闘の食堂経営者などメンバーは多彩だった。私もいつのまにか常連となっていた。話題は政治や文化、石巻の将来など多方面にわたった。当時、菊田医師は石巻出身ながら地元で忘れ去られている戦前の人権派弁護士、布施辰治の伝記に強い感銘を受けていた。「人間として生きる事で最も大切な事は不幸な人間のために味方になる事なのだと、若い人たちに伝えたい」。この小さな集まりを基盤に顕彰運動を広げていった。

 本社文化部に移った後、菊田医師に「代理母」をテーマに文化欄の寄稿をお願いしたことがある。「反自然的な〝子づくり〟」より近代的養子制度の活用が重要だという内容だった。しかし、最後に「それでもなお、子を欲しい夫婦の要望を十分に満たしえない場合、補助手段として代理出産などの現象を温かい目でみてやるべきではないでしょうか」と結ばれていた(読売新聞夕刊 91年2月28日)。主張には常に幅と柔らかみがあった。このころにはクリスチャンの洗礼も受けていた。

 その半年後、訃報に接した。大腸ガン、65歳だった。もっと勉強して質問すべきだったとの後悔はあるが、あの日々は今も私の宝である。

 

てんにち・たかひこ▼1981年読売新聞社入社 東北総局 東北総局石巻通信部などを経て 東京本社文化部で論壇を担当 2003年4月~18年3月東京本社論説委員 18年帝京大学法学部教授 24年より同大学法学部長 著書に『歴史認識を問う』(晃洋書房)

 

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