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訪朝66回の母の思い紡ぐ /「寺越事件」の真相求めて(中西 茂)2024年5月

 訪朝66回、92歳、寺越友枝さん死去―そんな記事が2024年2月末の新聞に載った。最初に北朝鮮を訪ねた時は56歳。息子の武志さんらとの24年ぶりの再会を報じた筆者は、この問題にこだわり続け、母親の思いを、新聞のコラムなどで、ことあるごとに書いてきた。この〝事件〟を忘れないでほしいと願っている。

 友枝さんが亡くなったいま、その思いを、多くの人の目に触れる原稿で伝えるのは、これが最後になるかもしれない。だが、そうした家族の思いは、拉致被害者の家族の思いと同じように、後世に語り継がれていかなければいけないのだと思う。

 1963年に漁に出て遭難したはずだった息子や弟が、24年もたってから北朝鮮で生きていたことがわかった―まるで浦島太郎のような話に家族や親族の驚きはいかほどだっただろうか。

 遭難当時の読売新聞石川県版の記事には、丸刈りの13歳だった武志さんの顔写真も載り、〈夫をわが子を 海岸で血眼 船体はさけ大穴〉といった見出しがついている。

 武志さんらの生存を伝える手紙が突然、石川県志賀町の親族のもとに届いたのは1987年1月のことだった。3月になって手紙のことが報じられると、地元メディアが金沢市内の友枝さんの自宅に殺到した。

 金沢支局に勤務し、記者4年目を終えようとしていた筆者もその一人だった。戸惑いを隠せない家族らから、玄関先で話を聞いたことを覚えている。

 北陸中日新聞の特ダネを追いかける形だったが、系列の東京新聞には掲載されなかったことで、読売新聞も大きな扱いにしてくれたのは、その先の展開を考えても幸運なことだったと言える。

 

母子再会 取材は北京から

 この騒動から5カ月余り。友枝さんは四方八方に手を尽くし、ようやく北朝鮮訪問が実現した。夫の太左エ門さん、社会党朝鮮問題対策特別委員会事務局長としてパイプ役を務めた、地元選出の嶋崎譲衆議院議員と一緒だった。

 24年ぶりの再会を伝えた時、筆者は中国の北京にいた。北朝鮮がメディアの入国を認めなかったため、電話で取材するしかなかったのだ。

 当時、日本から北朝鮮に電話を申し込んでも、つながるのは何時間先かわからない状態だった。中国からなら申し込んで何分か待つだけで良かった。

 もっとも、かの国は「会わせる」と言っても、それがいつになるのかは事前に教えてくれない。携帯電話も電子メールもない時代だ。嶋崎氏や夫婦が平壌のホテルに戻る時間を見計らって毎晩、電話をかけるしかなかった。

 

箱乗りの飛行機で見た涙

 劇的な対面は、友枝さん夫婦が北朝鮮に入国して4日目の9月3日。友枝さんのはずんだ声を聞くことができた。

 会った瞬間に我が子だと本能的にわかったようだったが、本人でなければわからない実家の近くの様子を聞いて確かめた。

 「思ったより立派に育っていた」「手のひらをみて苦労しとる手でないことがわかった」「荷物も持ってもらえて『お母さん、お姫様みたい』と話した」

 当時の電話取材のメモを読み返してみても、母の思いがあふれていることがわかる。

 対面後、帰国前に立ち寄った北京での記者会見は、笑顔も見せながら気丈にふるまっていた友枝さんだったが、北京から成田に向かう飛行機の中では違った。到着まで機内でずっと号泣し続けたのだ。

 〝箱乗り〟取材ができたのは筆者だけだったが、全くコメントがとれないままで入国となった。ダメ記者と言うほかなかった。

 

「武志にも切符がほしい」

 筆者はその後も寺越家を定期的に訪ねた。そのうちに居間にあがって、時には食事までご馳走になる関係を築くことができた。雑誌記者の取材に、親族のような顔をして同席したこともある。

 あるときは、武志さんからの電話の録音も聞かせてもらった。そこでも友枝さんは常に、武志さんの健康を気遣う母親の顔を見せていた。

 友枝さんは次の訪朝のためにも必要だからと働き続けた。筆者は、武志さんのもとに物資を送る友枝さんのことを社会面のコラムにもした。日本人妻の帰国が実現することになった1997年には、「武志にも〝切符〟がほしい」と訴える原稿を社会面の記事に添えた。

 中学生で図らずも異国での生活を余儀なくされた数奇な運命の武志さんのことは、教育専門記者として中学生向けに依頼された講演で話したり、道徳の教育雑誌で紹介したりもしてきた。

 武志さんの一時帰国は2002年に、ただの一度だけ実現した。しかし、訪日団の副団長としての〝帰国〟だった。この直後、拉致被害者5人が帰国した。

 一時帰国の時、筆者は手術を受けて入院中だったため、武志さんの日本での取材に関わることが全くできなかった。ここでも間の悪い記者であることをさらけ出した。

 その後、北朝鮮に渡ったまま暮らすことになった夫が2008年に他界。最後の訪朝はその10年後で87歳だった。友枝さん自身も、北朝鮮で一緒に暮らすことを誘われていた。

 母子の間で真相がどこまで話されたかはわからない。友枝さんからは、2人のやりとりを聞く機会もあった。しかし、聞けたのは、友枝さんが真相を確かめようとしても武志さんが言葉を濁したといったところまでだ。記事化には至らなかった。

 いまでも悔いが残るのは、初回の訪朝直後の石川県版の連載で、真相というタイトルを、鍵かっこなしで載せたことだ。遭難したメバル漁の船はわずか1・5㌧。「機関故障した近海で深夜に100㌧ほどの船に衝突されて海に投げ出され、気づいたときには北朝鮮にいた」というストーリーを、「真相」ではなく真相として書かざるを得なかった。

 拉致被害者家族会に加わるかどうかでも、友枝さんの心は揺れ動いた。自分の意志と は関係なく北朝鮮に渡って住み続け、孫までいる武志さんの立場を考えて常に行動していたのだと思う。

 友枝さんの入院を知った昨年、武志さんは、心配して何度も電話をかけ、妹の正枝さんに「海の深さと山の高さは測れるけど、母の愛は計り知れない」と話したという。長く離れて暮らした母子の絆は強かった。

 

密かに「金沢のお母さん」と

 今回の原稿を書くために、正枝さんと連絡をとった。「どうぞ、どうぞ、なんでも書いてください。『中西さんは一番書けることを聞いとった記者やったがに(聞いていた記者だったのに)』と、母はよう言うてました(よく言ってました)」と懐かしい金沢弁が聞こえてきた。

 筆者と九つ違いの武志さんはいま74歳。そして友枝さんは筆者の母と同い年だった。私的なことを加えれば、筆者の母は海で長男(筆者の兄)をなくしている。そんな縁で〈金沢のお母さん〉と密かに思っていた。

 一時帰国実現の前には、「なんとかならんがか(ならないか)」と友枝さんから何度となく言われた。この点でも全く力になれなかった。

 「お母さん、最後までダメな新聞記者でした」といつか墓前で謝るしかない。しかし、真相が解明されるときまで、筆者を含む関係者が語り続けることは必要だと思っている。

 

なかにし・しげる▼1958年生まれ 83年読売新聞社入社 金沢支局 東京本社社会部 解説部次長 編集委員などを経て 2016年退社 玉川大学教授を8年務め 現在は星槎大学客員教授 教育ジャーナリスト 著書に『教育改革を問う キーパーソン7人と考える「最新論争点」』(教育開発研究所)など

 

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