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「やっぱり、戦争は嫌いだ」 /―大岡昇平と福田恆存(小山 鉄郎)2024年4月

 1988(昭和63)年12月27日。2日前に79歳で亡くなった作家、大岡昇平さんのお別れ会があった。大岡さんの遺志で葬儀・告別式はなかったが、大岡さんの死を悼む人たちが「どうしてもお見送りを」ということになって、一般に公表はせずに、東京・成城の自宅で午後2時からお別れ会が行われたのだ。

 大岡邸の庭に面したサンルームに設けられた祭壇へ献花を済ませた後、参列者たちは玄関側に回って家を遠巻きに囲むように並んでいた。私の近くに秋山駿、丸谷才一、中野孝次…、少し離れたところには加藤典洋、佐々木幹郎、そして大江健三郎の各氏ら日頃、大岡さんを敬愛する文学関係者約150人が出棺の時を静かに待っていた。それは昭和天皇が亡くなる直前のことだった。

 真冬の曇天の本当に寒い、底冷えの日で、私はときどき体を動かしながら寒さにたえていた。その時、背後から私のコートを引っ張る人がいた。振り返ると福田恆存さんだった。

 

◆あっちで話そう

 私は会釈をした後、「大丈夫ですか」と聞いた。福田さんは7年前に脳梗塞で倒れたことがあり、この日の寒さが心配だった。厚手のコートを着ていた福田さんは「うん、大丈夫だよ」と言った。さらに「君は大岡(作品)が好きなの?」と尋ねてきた。私が好きな大岡作品について話すと、福田さんが少し離れた方を指して「あっちの方に行って話そう」と言う。私は、従って歩みながら、大岡さんのお別れ会に福田さんが姿を見せたことに、驚いていた。

 福田さんは日本を代表する右派の論客として、『平和論にたいする疑問』などの論で〝進歩的文化人〟たちに冷水を浴びせてきた人。『私の國語教室』で旧仮名の合理性を述べ、新仮名表記の矛盾を詳細に指摘して戦後の国語改革と闘った人である。

 一方、大岡さんは『俘虜記』『野火』『レイテ戦記』などの作品で知られ、一貫して戦争に反対してきた左派の代表的な存在だった。右派の頭目のような福田さんが、左派のこれまた頭目のような大岡さんのお別れ会に来ているのだ。かつて文学者の集まり「鉢の木会」で2人が一緒だったことは知っていた。だがその後の2人の交友を知らなかったので、思わず「大岡さんと親しかったんですか」と聞いてしまった。

 

◆世間には内緒で

 それに対して福田さんは「僕らはいいんだが、お互いの支持者がねぇ」と言った。「僕の支持者は何で大岡なんかと付き合うんだとうるさいし、大岡の支持者も何で福田なんかと付き合うのかとうるさいらしい」

 そこまで話した後、福田さんは一瞬、間を置いて「だから、ある時から世間には内緒で会っていたんだ」と、ちゃめっ気のある笑顔を見せた。

 「大岡が富士の山荘に行く途中か、または山荘をたたんで成城のこの家に戻る途中かに、夫婦で僕の大磯の家に泊まっていって、一晩話し込むことにしていたんだ」と言う。

 「最後に会われたのは、いつですか」。そんな記者らしい質問を私はした。「今年の9月」と福田さん。

 「大岡さんとの最後の言葉はなんですか」と、さらに質問を重ねた。

 福田さんの目が少し遠くを見るようなものになって、「いゃー、大岡が帰る時、僕の家の玄関でちょっと口論みたいになっちゃってねぇ。戦争のことで。『やっぱり、戦争は嫌いだ』と大岡が言って、勢いよく僕の家の玄関の戸をパーンと閉めて、帰っていったんだ」と言う。

 神奈川県大磯町の福田邸は和風の建物。その玄関を勢いよく閉めて去っていく大岡夫妻…。そんな光景を頭に描いていると、続けて福田さんはこう加えたのだ。

 「でも、最後の言葉が『やっぱり、戦争は嫌いだ』なんて、実に大岡らしいよね」

 そう言って、福田さんは破顔一笑。まるで少年が本当に楽しい時に見せるような満面の笑みで立っていた。

 歯に衣着せぬ発言で知られた大岡昇平、福田恆存という左右の代表的な論客。もちろん対立する時もあっただろうが、でも2人は互いに認め合う親友同士だったのだ。

 そのことへの驚きが、私の中で今も続いている。私たちは、いや私は、互いの考えが異なっていても、それを堂々と述べ合い、かつ互いに認め合う親友を持っているだろうか…。

 

◆まじめな人は

 大岡さんは1971(昭和46)年に日本芸術院会員に選ばれるが「過去に捕虜の経験があるので、国家的な栄誉を受ける気持ちにはなれない」として辞退し、大きな話題となった。そして昭和天皇が重い病に倒れた後、もし亡くなった時の企画として「インタビュー・私の昭和」というシリーズを考えて、取材のお願いの電話を大岡さんに私はした。

 でも大岡さんは既に数紙の取材を受けていて〝自分としての思いは十分話した〟というような返事を繰り返した。あまりしつこいのもよくない。最後のお願いだと思い、「ご存じのように、共同通信の文化部の記事は主に地方紙に掲載されます。各地方紙にも大岡さんの読者はいると思います。広島にも長崎にも沖縄にも」と述べた。すると「…やりましょうか…」と大岡さんは言って、その取材を受けてくれたのだ。

 「まじめで勇敢な人はいて、そういう人はみんな死んだ」。自分の戦争体験を話す大岡さんの目は潤んでいた。この取材から、わずか3カ月後の大岡さんの死だった。

 そして福田さんが私のコートを引っ張ったのは、前年刊行の『福田恆存全集』で私が長時間のインタビューをして、その後も何度か話す機会があったこと。さらに、もし天皇が亡くなった時、「昭和という時代」についての執筆依頼を電話でしたことがあったからだと思う。

 その電話に「書くのを約束している新聞があるから」と福田さんは言う。でも簡単には諦めたくなかった。

 「人は時代やおのおのの制約の中で生きざるを得ない。そんな宿命をしっかり自覚して生き、自立することが人間というものの姿なのだ。そう福田さんはおっしゃっているのではないですか。福田さんが生きた『昭和という時代』を読んでみたい」と私が話すと、「そう君に言われたら…」と言って、電話の向こうで福田さんが諾否を考えているような時間があった。しばらくして「でも、やっぱりやめよう。約束しているのだから」と福田さんは言った。福田さんらしい明快な答えだった。

 

◆最後のお別れを

 「福田さーん、福田さーん」。大岡さんのお別れ会の時、福田さんと私が話していると、そんな女性の細い声が聞こえてきて、それに向かって福田さんが手を挙げた。その声の人が近づいてきて、「福田さん、最後のお別れを」と言った。

 福田さんは黙ってうなずいた。その時、大岡邸の前には多くの文学者がいた。もちろん既に大岡さんと、お別れを済ませている人も多かったと思うし、大岡邸内にも文学者がいたかとも思うが、大岡さんの棺を閉ざすにあたって、福田さんが最後のお別れに呼び込まれたのだった。

 福田さんが大岡邸の玄関の方へ向かって歩いていく。私はその姿が大岡邸の玄関の中に消えていくまで、じっと見ていた。

 その時から、11日後に「昭和という時代」が終焉した。「これは最後まで現役の作家だった大岡さんの、新しい時代への遺言だった」。そう私は記して、大岡昇平さんへのインタビュー記事を即時に配信した。

 そして福田恆存さんも大岡さんの死から6年後、82歳で亡くなった。

 

こやま・てつろう▼1949年群馬県生まれ 73年共同通信社入社 川崎 横浜支局 社会部を経て 84年から文化部で文芸欄 生活欄を担当 現在 同社編集委員 2013年度日本記者クラブ賞を受賞 著書に『白川静さんに学ぶ 漢字は楽しい』『あのとき、文学があった―「文学者追跡」完全版』『大変を生きる―日本の災害と文学』『村上春樹クロニクル』など

 

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