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大韓航空機爆破事件/検察官は電話をとった/「真由美にソウル見せた」(深田 実)2023年12月

 だいぶ古い本になるが、アメリカの記者デービッド・ハルバースタムの著書『ベトナムの泥沼から』はこう始まる。〈ツイているか、ツイていないかは、新聞記者の生涯を大いに左右する〉。ピュリツァー賞記者のハルバースタムにはもちろん遠く及ばないが、私がツイていたと今でも心密かに思うことの一つを以下に書いてみよう。

 30代半ば、念願の東京社会部配属と同時に私は検察担当となった。その1日目、特捜部の松田昇部長に挨拶に行き、すぐ口論を始めた。私は名古屋の問屋の息子なので「税金は高すぎるし、国の無駄遣いに比べ、脱税はそれほど悪いのか」と口を滑らせた。脱税捜査の指揮官でもある松田さんは文字通り烈火のごとく怒り出し、1時間ほどの議論の末、彼の「脱税は殺人より罪深い」という結語で終わった。そんなふうに、最高検、東京高検、東京地検の幹部たちと世間話をするようになった。プロ野球の話もするし、株の投機話になるとマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を語り出す人もいたが、彼らが私から知りたかったのは、検察の手がける事件を世間はどう受け止めているのか、ということではなかったか。何しろ警察に比べ検察は極めて陣容が小さい。世間の応援なくしては事件はつぶれる。

 

猿ぐつわ、泣き顔で登場

 1987(昭和62)年11月、大韓航空機爆破事件が起き、容疑者「蜂谷真由美」がソウルに移送されるので、社会部長から「君、行ってくれ」と命じられた。そう言われても、どう取材すればいいのか。あちこち回るうち、日韓検事交流という海峡を越えた交際のあることを知り、それならば検察幹部たちに韓国の知り合いの検事に紹介状を書いてもらおう、と思いついた。便箋に書いてくれる人もいれば、名刺にさらりと記す人も。6、7通集まった。そして12月15日「真由美」は自殺止めの猿ぐつわをはめられたまま、泣き顔で飛行機のタラップを降りてきた。

 

紹介状頼りに取材開始

 早速、紹介状を頼りに取材を始めた。欲しいのは真由美の供述内容である。検察は起訴と公判に備え、取り調べは国家安全企画部(旧KCIA)が行うという。彼女は、おそらくソウル南縁のナムサン(南山)にある安企部本部の奥深くで取り調べを受けている。彼女の存在と供述は、南北朝鮮間の外交に触れる機微であり、政治プロパガンダの格好の材料でもある。聞いた話が本当かどうかまず疑わねばならないし、聞いた話のウラが取れるものでもない。

 ある日、紹介状に記された名前の検事が翌年のソウル五輪を準備する事務所の一つに出向していると分かった。訪ねると、その青年検事は背広を着て小型の机に向かっていた。紹介状を見せて挨拶をすませると、本題に入った。

 「実は真由美について調べています。彼女はどこでどうしているのですか。何か話しているのでしょうか」

 目の前の検事は驚くほど親切だった。

 「同期の友人がそちらの方にいる。知っているかもしれない」

 彼は机上の電話をとって友人に架け、私たちの前で話し始めた。通訳と私は喜ぶというより、むしろ緊張していた。受話器を置くと、彼はこう言った。

 

ソウルの発展「知らない」

 「真由美をバスに乗せて、夜のソウルの繁華街を回ったそうだ。彼女はソウルの発展をまるで知らない。そう教えられていないし、信じてもいない」

 私はスパイである真由美は海外の事情に通じ、従ってソウルの発展を知らないはずはない、と思いつつも記事にした。残念ながら供述内容には届かなかったが、私とナムサン奥深くの取調室との間にか細いが一本の糸がつながった気がして、ツキがきたと思った。事件の内容に直接かかわるものでなく、新聞の扱いも大きくはなかったが、記者としての満足感はあった。韓国紙は一斉に追ってくれた。

 先にウラの取れない話と書いたが、この話は後日ウラが取れた。

 真由美こと金賢姫は本を出した。日本語版は『いま、女として/金賢姫全告白』(文春文庫、上下巻)。ここには生い立ちから、訓練、爆破、取り調べ、死刑判決、そして特別赦免まで全て書いてある。

 取り調べの部分を見ると、12月22日の項に男性捜査官から「今日はソウルの見物でもしよう」と告げられ、黒のツーピース、ジャンパー、セーターを与えられたという。車窓から見えた自動車の波、看板の列、人々の身なりに目を見張り、中でも露天商の並べる「北」では見ないような高級時計、服、靴に驚いたという。彼女はこう記す。〈ソウルでのはじめての外出……。それが私にとって決定的な罠になるとは、予想もできないことだった。ただ一度のソウルでの外出が、私の固い意志を根こそぎ揺さぶるようになるとは〉

 これを機に全面自供となる。食事の時、コチュジャンを指して「これはケチャップ?」などと嘘を重ねてきたのに、ソウルの繁栄という真実を前に人格の多くを占めていた虚構は崩れ去った。真実の強さであり彼女の理性の勝利である。

 検察官に紹介状を書いてもらったというと、それは癒着じゃないか、という人がいるかもしれない。しかし私は反論したい。それで貸し借りができるわけではないし、そういう相手かどうか私なりに判別してきたつもりである。権力に迫らねば監視は難しい。そのころの検察の陣容は、世代を追って言えば、戦後特攻帰りのような検察官が育てた検事がロッキード事件をやり、ロッキード事件をやり抜いた検事が育てた検事たちである。彼らはリクルート事件へ突き進むことになる。古武士のような面々で、質朴篤実、靴下につぎをあてている者もいた。

 彼らの家を訪ねると、居間の書棚に『裁かれる首相の犯罪/ロッキード法廷全記録』の幾巻かの銀色の背表紙の並ぶのをよく見た。傍聴記を書いた東京新聞特別報道部編。諸先輩の仕事のおかげでソウルのツキもあったのだと思う。

 

国家の闇、暴けず痛恨

 ツキのなかったことも挙げておこう。初任地の富山県高岡支局でサツ回りをしていた時のことである。

 1978(昭和53)年夏、日本海に面する海岸で若いアベックが誘拐されそうになった。犬が吠え、男性が民家に救援を求めた。地元紙の一つが社会面トップで「暴走族に襲われたか」と報じた。抜かれた私は捜査一課長を問い詰めた。彼は「未遂だ。書かない方がいい。かわいそうじゃないか」と言い張った。彼とは、全国手配の怪盗を取り逃がした大失態などを書きもしたが、外国人を調べる英語通訳を密かに頼まれる仲でもあった。結局、私は書かず、後年、事件は北朝鮮の犯行と分かる。

 遺留の特殊な猿ぐつわは、タラップを降りる金賢姫がはめられたものと似て口の奥深く入る。誤報は免れたものの私には国家の闇を暴けなかった痛恨事である。そのころ拉致は集中発生し、新潟の横田めぐみさんが拉致されたのは前年の初冬である。報道が早ければ、拉致被害は抑制されていたかもしれない。

 ハルバースタムはある誤報の回避というツキにより念願のベトナム派遣となった。私は様々のツキを得て、希望のカイロ支局赴任となり、ラビン暗殺に出会い、アラファトと握手することになる。

 

 ふかだ・みのる▼1950年生まれ 75年中日新聞社(東京新聞)入社 名古屋本社整理部 東京本社・社会部 外報部(カイロ支局)などを経て 論説室で一面コラム「筆洗」担当 論説主幹 取締役論説担当を務め 2023年6月退社

 

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