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民社党の終末、見つめた日々/関係濃密、抜かれつ抜きつ(城本 勝)2023年9月

 中間政党の立ち位置は難しい。野党陣営のなかで独自路線で存在感を発揮しようとしても、選挙で得をするのは相対的に得票が増える野党第一党。かといって自民党に近づいていけば、補完勢力に成り下がったと批判を浴びることになる。与党でも野党でもない「ゆ党」だと是々非々の立場をとったところで、ますます支持を減らしかねない。中間政党、特に少数野党の場合は永田町での立ち居振る舞いはまことに難しい。だがそれだけに世論の風を読み、情報網を張り巡らせて永田町の荒波を乗り切っていかなければならない。その分党内の人間関係も濃密になり、ユニークな人材も集まる。かつて存在した民社党の話である。

 私が民社党を担当したのは1992年から2年ほどの間だが、この間、自民党を飛び出した小沢一郎氏と手を組んで細川連立政権に参加。政権を失った後は、細川政権から生まれた新進党に参加して党は消滅した。

 

「米沢派だと分かっている」

 その頃の民社党には大きく言って二つの路線があって対立していた。

 大内啓伍委員長ら自民党との連携さえも視野に入れて政策実現を目指す議員たちと米沢隆書記長を中心とする自民党に代わる政治勢力の結集を目指すグループだ。

 大内さんと米沢さんの二人は、性格も正反対。大内さんは、党書記局出身の理論派。政策通で演説も得意だった。記者との付き合いは良かったが、懇親会などでアルコールが入ると、「君が米沢派だということは分かっている」とか「君の先輩の〇〇は私についていた」などと絡んでくるのには閉口した。

 それでも、休みの日に国立競技場でランニングに汗を流しているところを捕まえたり、ホテルの駐車場に張り込んでサシで取材すれば率直に話してくれた。「内緒だけどあの話はボクが細川首相にアドバイスしたのだ」などと多少の脚色もあったようだが。

 米沢さんは対照的だった。熊のような巨体にまん丸眼鏡の独特の風貌で、あけっぴろげ。高輪の議員宿舎の夜回りは出入り自由。だがいかんせん口が堅い。機嫌が悪い時は何を聞いても「ああ」とか「うう」ばかりで、あげくに「俺はもう寝る。帰れ」。逆に、気が向くと、「これから飲みに行くぞ」。高輪から赤坂にとって返して、カラオケスナックをはしごする。深夜、未明まで歌い続けて取材どころではなかった。

 

武村更迭 聞いていたのに…

 だが人生修行のように徹底して付き合った成果だろうか。ある時米沢さんから重大な話を聞き出した。細川政権のなかで小沢代表幹事と武村正義官房長官の対立が抜き差しならないことになり、政治改革関連法案の成立が危ぶまれ始めていた頃のことだ。93年、年の瀬のサシの取材で「細川が武村更迭を決断した。政治改革法案が通ったら内閣改造を断行する」と言うのだ。

 法案が通るまでは書くなよ、と念押しされたこともあって、私はキャップにも情報を上げなかった。タイミングを見て特ダネに仕上げる功名心に駆られたからだ。ところが、政治改革法案の参議院での否決、一転して細川―河野トップ会談での決着というドタバタのなかで、書くタイミングがつかめない。年明けようやく決着したと思ったら今度は突如浮上し政権内が大混乱に陥った国民福祉税構想。米沢さんは小沢路線に沿って苦闘したが、結局国民福祉税は撤回に追い込まれ、一連の政局は武村さんの圧勝にも見えた。

 何はともあれこれで一段落と私は、遅い正月休みをとって家族と伊豆の温泉旅館に泊まっていた。ところが94年2月14日の早朝、東京政治部からの電話でたたき起こされた。「産経に抜かれてるぞ!」。何と産経新聞の1面にデカデカと「首相 予算編成後に内閣改造を決意 官房長官処遇が焦点」とある。抜かれたショックよりも、抜き損ねた己の不甲斐なさに猛烈に腹が立った。今さら「私も聞いていました」などとは口が裂けても言えない。

 気が動転したまま米沢さんに電話した。「産経に出てるのはあの時の話ですよね」。あまりに間抜けな質問だったのだろう。米沢さんは「お前には話しただろう。本物のバカか」と笑った。

 ともかくコンファームはできた。政治部に電話して「裏を取れました。これから東京に戻ります」と言ったが、「いいよ。さきがけと社会党が絶対やらせないと言っている。民社党の大内委員長も反対だってよ。もう少し様子を見よう。温泉にでも漬かってろ」。

 大内さんは改造があれば外相に横滑りかな、なんて言ってたのに、勢いのある武村さんについたのか。これも大内流だなと妙な感心をしたが、いずれにしても後の祭り。書かなかったというより、書けなかった話というオチでは格好がつかないので、書いた話も紹介しよう。これも米沢さん。

 

「の、じゃない。い、だ」

 その後、細川政権が突然退陣して羽田孜政権になるが、94年5月、失言問題で法相が交代する時のことである。後任には民社党からの起用が有力になっていた。呼び込みの日になっても固有名詞がなかなか取れない。他社の中には、中野寛成さん有力と打ってくるところもある。米沢さんに電話して「中野さんで固まったと書いていいですか」と聞くと「バカモン。の、じゃない。い、だ」と怒鳴られて電話は切られた。「の」じゃなくて「い」だって。中野じゃなくて中い・・・中井洽さんだ!

 慌てて中井さんの地元の家に電話すると夫人が「中井は官邸に行くと言って出かけました」と言う。間違いない。本人に聞くしかないが、その頃新幹線では携帯電話が通じないことが多かった。夫人から聞いた列車に電話を入れた。当時は、呼び出しサービスがあったのだ。車内放送で緊急の要件だと伝えるように頼んで電話口で待つ。果たして出てくれるだろうかと気をもみながら、しばらく待つと、新幹線の騒音の中から中井さんのダミ声が聞こえてきた。

 「どうした。何かあったか?」「官邸に呼ばれましたよね」「呼ばれた。東京駅に官房長官が迎えにくると言っていた」。中井さんも不安だったのだろう、官邸や民社党内の反応などを逆に聞いてくる。

 私は、横にいた官邸キャップにささやいた。「本人が呼ばれたと言ってます。打ちましょう」

 間もなく速報スーパーが流れた。ささやかな特ダネだが、私にとっては、忘れられない思い出だ。

 

少数野党 生き残りの難しさ

 細川政権が崩壊した後、大内さんは新進党に合流せず自民党に入党した。米沢さんは、民社党の旗を降ろして新進党に合流し、盟友の小沢さんと行動を共にし続けたが、自らの落選や新進党解党もあって、民主党に移った。

 中井さんは、小沢自由党に参加して、合流後の民主党に移り拉致問題担当相の重責を担った。政治家としてそれぞれの信念に従い、異なる道を歩んだ三人だった。三人ともすでに鬼籍に入って久しいが、政界の今の有様を見てどう思うだろうか。

 少数野党が生きていくのは難しい。強大な自民党にどう対峙していくのか。野党勢力が力を合わせて政局を動かすのか。自民党と是々非々で向き合うことで政策実現を進めるべきなのか。旧民社党の伝統を受け継いでいる国民民主党の今を見ていると、そのことが頭から離れない。

 

 しろもと・まさる▼1957年熊本県生まれ 82年NHK入局 福岡放送局 報道局政治部(首相官邸 自民党 民主党) 政治部副部長 解説副委員長 福岡放送局長 日本国際放送社長 2022年からフリージャーナリスト 著書に『壁を壊した男―1993年の小沢一郎』(小学館)

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