ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


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中南米 3つの無理な越境/こっそり、だまし、へっぴり腰(中井 良則)2023年2月

 こっそり越える。だまして入る。へっぴり腰で渡る。

 境界をまたいで異国に入る方法はいざとなれば、あれこれ見つかるものだ。新聞社の特派員として中南米を歩き回っていたころ、あちこちで無理な越境を迫られた。最強といわれる日本パスポートも使えない時と場所がある。「密入国」というと悪事めくが、あれはまさに密入国だった。そして密入国した者はその瞬間から悩みごとを抱えることになる。密出国しなければならないからだ。3カ所の越境を思い出してみよう。30年ばかり昔の話になる。

 

「水道技師なんですが」

 【91年5月 エルサルバドル軍検問所からゲリラ支配地域】

 メキシコ市に住んで中南米33カ国をカバーしていたのは1990年から94年までの5年間だった。ベルリンの壁が89年に倒れ、「冷戦後」が世界中のキーワードだった時代だ。

 中米の小さな国エルサルバドルでは、左翼武装組織と政府軍の戦争が10年以上、続いていた。冷戦が終わり、内戦もそろそろ終結するかもしれない。ゲリラが現役でいる間に会ってみようか。反政府ゲリラ「ファラブンド・マルティ民族解放戦線」(FMLN)の司令官の一人と会える段取りがついた。サンタマルタという村に行け、という。ホンジュラスとの国境に近い山の中らしい。

 ゲリラの支配区に入ってもいいという運転手と若いカメラマンを首都サンサルバドルで見つけ、助っ人に頼んだ。めざせサンタマルタ。

 首都から北東へ100㌔、ビクトリアという町のはずれに軍・警察の検問所があった。ここまでは政府軍が押さえているが、検問所を越えればゲリラの支配区だという。政府権力が及ばない別の国だ。舗装されていない細い山道の6㌔ほど先がサンタマルタらしい。「日本の新聞記者だよ、ちょっとゲリラと約束があってね」などと警備の兵士に言えるわけがない。

 さて、どうするか。運転手とカメラマンに相談した。「政府の重要な仕事で最前線まで来た、と説明しなきゃ」「水道開発の現地調査ってのはどうだ」。そんな作戦会議を事前にやった気がする。

 ともかく、私は水道技師を演じる羽目になった。うさんくさそうにパスポートを調べる指揮官にしどろもどろで説明した。こちらが愛想笑いを振りまいてもにこりともしない。やっぱり無理だったか。

 運転手が指揮官に声をかけ、二人で物陰に消えた。2、3分で戻ってきて「さあ行こう」。てっきりカネで解決したのかと思い「いくら払った?」と聞いた。「いや、軍のお偉方のだれそれは友達だ、と言っただけだよ」

 

住民虐殺 村人が証言

 緑に囲まれたサンタマルタ村は人口3000人と聞いた。水道も電気も公立学校もない。自給自足の共同体を維持してきた。81年、政府軍が村を襲い、家を焼き理由もなく何十人も殺した。国内でも知る人がいない住民虐殺事件を伝えてくれと村人が次々に証言した。驚いて、首都に戻ってから連載記事に書いた。

 3日目に山から現れた若いゲリラ兵に先導され山道を登った。尾根にいたのは中央戦線司令官だった。

 村を離れる時は、あの検問所を通る時だ。さて、水道調査の成果をどう説明しようか。ゲリラ取材がばれたらどうしよう。先に村を出ていた運転手がなんと検問所の政府側で待っていた。運よく、警備兵はほかの通行人の相手をしている。カメラマンと二人、見つからないように腰をかがめて走り、車に駆け込んだ。あんなに走ったのは初めてだった。

 

四つんばいで古タイヤに

 【93年1月 メキシコから米国】

 メキシコから米国へ入ろうとする移民の波は30年前もきょうも途切れない。メキシコ人の視点で国境を歩こうと、国境の町シウダーフアレスを訪れたのは93年だった。

 米テキサス州の都市エルパソとの間をリオグランデが流れる。川幅は15㍍ほどか。見ていると、メキシコや中南米の人々が次々に川を渡っている。直径2㍍ほどの古タイヤに乗る。コヨーテと呼ばれる密入国手配師がロープでタイヤを引っ張る。じゃぶじゃぶと腰までの深さの川を歩いて渡る。向こう岸に着くのに1分もかからない。

 メキシコ側では馬に乗った警官が無言で見ているだけだ。米国側は貨物列車の広大な操車場らしい。川岸のフェンスの切れ目をもぐり、列車に忍び込む。翌朝には米国の奥深く、見知らぬ町にたどり着けると移民志願者が説明した。

 「乗ってみるかい」とコヨーテに声をかけられた。これも取材だ。古タイヤに乗った。片道2㌦の運賃を払う。四つんばいでへっぴり腰になるのが情けない。あっという間に米国に上陸した。移民のあとを追って、列車に同乗すれば面白いルポ記事が書けるぞ、とささやき声が聞こえる。フェンスの切れ目は目の前だ。4、5分うろうろした。結局、古タイヤに戻った。帰りも2㌦。往復割引はない。米国の滞在時間5分は初めてだった。

 

「逮捕する」と大佐は言った

 【94年9月 ドミニカ共和国からハイチ】

 あの頃もハイチは大混乱だった。カリブ海のイスパニョーラ島の西部にあるこの国は91年、軍事クーデターで大統領が追放され、94年には米国が軍隊を送り込んで軍政に退陣を迫ろうとしていた。米軍進駐の日が決まり、それまでにハイチに入らなければならない。空港は閉鎖され、陸路を歩くしかない。

 というわけで、島の東隣のドミニカ共和国に日本人記者も集まっていた。国境のハイチ側の検問所で、といっても掘っ立て小屋だが、兵士が銃を構えている。日本人記者は4、5人いただろうか、指揮官の中尉に頼み込んでもらちが明かない。仕方がないと木陰に座り込んだ。

 日が沈むころ、中尉は何を思ったのか「行っていい」と通してくれた。入国スタンプも許可証もないが、ぎりぎりで首都のポルトープランスにたどり着けた。

 米軍の進駐や軍政退陣は流血の事態にならず、取材は一段落した。さて引き揚げよう。もう一人の日本人記者と二人でドミニカ共和国へのルートを逆にたどる。国境まで数㌔の検問所で兵士に見つかった。仕方がない。また木陰に座り込んだ。

 ここからが事実は小説より奇なり。あの中尉が通りかかったのだ。半日近く粘ったアジア人を彼も覚えていた。助かった、と思った。ところが、今度は上官の大佐がやってきた。中尉は大佐と話し込んでいる。こちらははらはらどきどき。大佐はわれわれのパスポートを調べ「密入国だ。逮捕する」と宣言した。まずい。逃げようかと足が動いて、思いとどまった。「中尉に命じて即時、国外追放する」と大佐が付け加えたからだ。ということは出られる?

 中尉はわれわれを国境の掘っ立て小屋に連行した。部下たちを集め、パスポートを手に尋問した。「どうやって国境を通過したのか」。「親切な中尉さんがいましてね」とは言えない。「旅行会社のバスで通った」と出まかせでしゃべった。中尉が叫んだ。「けしからん旅行会社だ。千㌦の罰金だ」。パスポートを返してくれ「行っていい」。

 部下の前で芝居を打ってくれたのだ。こんなにうれしい国外追放は初めてだった。

 

 1953年大阪市生まれ 75年毎日新聞社入社 横浜支局 東京社会部を経て 外信部 ロンドン メキシコ市 ニューヨーク ワシントンの特派員・支局長 外信部長 論説委員 論説副委員長 2009年退社 日本記者クラブ元事務局長・専務理事 現在は海外日系人協会常務理事 アジア調査会理事

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