取材ノート
ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。
樹木希林さん俳優/温かいまなざし ジャーナリスト(伏原 健之)2022年12月
「あなたは面白くない」
樹木希林さんに会うたびに、いつもそう言われて、叱られた。
希林さんと初めて仕事をしたのは2013年。伊勢神宮の式年遷宮を巡るドキュメンタリーで旅人役(ナビゲーター)をお願いした。当初は遷宮にまつわる人物や祭事を訪ねる“紀行モノ”の予定だったが、気がついたら、希林さんそのものに興味の対象が移っていた。
東京の自宅の撮影では、リビングや寝室、クローゼットや浴室、冷蔵庫の中まで〝ご開帳〟された。夫婦のエピソードや、芸能界のウラ話、趣味の不動産の話、さらに自身の病気や死生観まで、面白くて深い話をたくさん聞いた。
希林さんは番組の出演者でありながら、時にはプロデューサーのようだった。希林さんの提案で、伊勢神宮ゆかりの歌人・岡野弘彦さんを訪ねた。式年遷宮の物語に、戦争の話や現代社会の風刺が加わった。東日本大震災で津波に流された東北の神社へも行き、この時代に祈るということの意味を考えさせられた。
テレビは「情報」、映画は「人間」
番組は東海ローカルで放送されたのだが、私たちは全国で見てもらうために、映画化したいと考えた。しかし、希林さんの答えはNOだった。希林さんいわく「テレビは流れるもの」「映画は残るもの」だという。そして、テレビは「情報」を伝えるもので、映画は「人間」を描くものだと教えられた。私たちは放送した番組の構成や編集をやり直した。「人間、樹木希林を描く」ことで、番組に背骨ができた。タイトルは『神宮希林 わたしの神様』となり、14年GWに劇場公開した。舞台挨拶で、希林さんは「この映画があれば、自叙伝はいらない」と、笑っていた。
その後、希林さんには、『戦後70年 樹木希林ドキュメンタリーの旅』(2015年・出演)や、『人生フルーツ』(2016年・ナレーション)など、様々な番組で仕事をお願いした。会うたびに私たちのことを「恵まれない地方のローカル局」と言って、ケラケラと笑っていたが、希林さんは、番組の取材や、映画のキャンペーンに、とことん付き合ってくれた。東京、大阪、沖縄、鹿児島、宮城、長野、静岡など、全国を一緒に旅をした。海外の上映会に行く機会もあった。
旅先で希林さんと過ごす時間は、私にとって宝物だったが、会うたびに言われたのが「あなたは面白くない」「あなたには才能がない」だった。これは冗談ではなく、本気の言葉だった。今となっては、真意はわからないが、私なりの解釈は「調子に乗るな、足元を見ろ」である。才能もセンスもないのだから、小手先ではなく、「コツコツと取材して、誠実に仕事しろ」と言われたのだと思っている。
仕事、面白がれるかを大切に
最後に希林さんと旅をしたのは18年4月。ロサンゼルスの空港でレントゲン写真を見せられた。体中にガンの腫瘍があることが一目でわかった。「これが最後だから…」と言われ、その後、「あとは任せる」と言われた。
『神宮希林』の中で、希林さんが懐から手鏡を出し、「役者は世の中や人の心を写す鏡」と語るシーンがある。晩年、希林さんは「仕事は来た順、ギャラの順」などと笑っていたが、その仕事が「面白がれるかどうか」を大切にしていたようだった。
希林さんは、常に時代や社会を見つめ、人に温かいまなざしを向ける人だった。
希林さんはメディアであり、ジャーナリストだったと思う。
(ふしはら・けんし 1995年東海テレビ放送入社 営業局 制作局を経て 現在 報道局統括)