取材ノート
ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。
コロナ対応 SARSの亡霊/封じ込め政策 中国の脳裏に(加藤 青延)2022年10月
2019年12月、中国の湖北省武漢で初確認された新型コロナウイルスが、世界的な大流行となって間もなく3年になる。ワクチン接種が進む今なお、変異株による感染の波が次々と押し寄せて来る。鬱々と日々を過ごす私の胸中に追い打ちをかけるかのようによみがえってくるのが、20年ほど前、中国で体験した新型肺炎(SARS)取材の苦い思い出だ。
SARSも新型コロナと同じコロナウイルスで、致死率は約10%と新型コロナウイルスより毒性が強かった。中国本土で約5300名の感染者が出たほか、香港や台湾、シンガポール、カナダなどにも感染が拡大。世界全体で約8000名が感染し、800名近くが死亡した。幸い日本では感染の流行は起こらなかった。
中国でSARSの大規模な流行が表面化した03年4月初旬、当時北京特派員であった私は、東京に一時帰国中だった。その直前、米国を中心とした多国籍軍がイラクに侵攻し、日本の国際ニュースは、昼夜を問わずイラク戦争一色になっていた。このため北京からイラク報道支援要員として東京に呼び寄せられていたのだ。
北京便エコノミーに一人
ところが東京勤務について間もなく事態が一変した。「中国南部で発生した奇病が、どうも北京でもひどいことになり始めたらしい。せっかく来てもらったが、すぐに北京に戻ってほしい」。上司に言われて即座に成田に向かい、まず空港で異常事態に気づいた。北京からの到着便は満席状態で、大量の日本人がどっと降りてきた。多くが現地駐在とみられる家族連れで、日本に帰り着いたという安堵の気持ちが一様に顔に表れていた。
一方、私が搭乗するのは、その折り返し便だ。搭乗口で、搭乗券をチェックする地上職員の顔からは「この期に及んで北京に向かうのはよほどの事情があるのだろう」という同情の色が透けて見えた。機内に入ると他に乗客は見当たらなかった。がらんとしたエコノミークラスのキャビンに私一人だけがポツンと存在する形だった。客室乗務員たちは、医療用マスクにゴーグルを着用するという物々しい姿だった。
北京に着くと中国総局の現地ドライバーがポツンと一人、私を出迎えてくれた。ドライバーは感染防止のため、車の窓を全開にするように私に求めた。空港から総局まではおよそ30分。いつもは途中で渋滞に巻き込まれるのだが、市内は人の姿も車もほとんど見られずまるでゴーストタウンのように変わり果てていた。
3組体制 接触避け仕事
ようやく中国での「職場復帰」を果たした私が最初にとりかかったのは、現地雇員も含めて3つのチームに分けること。全員が一緒にいれば、誰か一人でも感染すれば全員仕事ができなくなる。リスクを分散するために、互いに接触せずに仕事を成し遂げられる独立したチームを3組編成した。異なるチームとの間では、もちろん電話で連絡を取り合うが、対面接触はしないことを原則とした。医療知識が乏しい中での手探りの対応だった。現地雇員からは「身近な人が発熱した」とか「同じアパートに住む人がSARSに感染して亡くなった」という連絡が次々と入ってきた。電話口から聞こえる雇員の声はみな震えていた。
だが、当時の私はウイルスに感染する恐怖よりも、SARSが猛威をふるうであろうことを事前に見抜けなかったことへの慚愧と自責の念が強かった。
政府「風土病」と隠ぺい
実はSARSは前年02年11月に広東省で患者が確認されていた。しかし中国衛生省は、「中国南部の風土病にすぎない。すでに十分なコントロール下に置かれている」という見解を繰り返していた。確かに当初は原因不明の奇病と診断されたかもしれない。だがその後、感染が拡大しつつあったのに、政府は「大したことではない」との姿勢を貫き、その実態を覆い隠し続けていた。こともあろうに私はそのような公式見解をうのみにして、北京の持ち場を離れるという致命的なミスを犯したのだった。これでは中国ウオッチャーとしては失格との烙印を押されても文句は言えない。
SARSが「南部の風土病にすぎない」という当時の政府見解は、中国国内にも医療崩壊という深刻な被害をもたらした。南部以外の地域の診療所や病院では、SARSに対して正確な情報が伝わらず、ほとんど無警戒の状態だったからだ。
政府による隠ぺいがまかり通る一方、水面下ではSARSウイルスの感染がどんどん拡大していった。その結果、北京や山西省など南部以外の医療機関で、医者や看護師がウイルスに感染してバタバタと倒れる悲劇が相次いで起きた。数年後に明らかになった統計では、中国本土で感染した約5300名のうち約1000名が医療従事者であった。同僚の中から感染者が出始めたことから、職場放棄をして逃げ出す医師や看護師が、当時後を絶たなかった。
防毒マスクの病院に突撃
私は、初動における出遅れという雪辱を果たすべく、実際に医療現場がどのような状態になっているのか、SARS患者が担ぎ込まれた北京市内の病院を突撃取材することにした。テレビカメラで撮影しながら一人で病院の中に突入した。そこで目にした看護師の姿が今でも目に焼き付いている。看護師たちは全員、化学兵器対策用の防毒マスクを着用していたのだ。今思えば防毒マスクが果たしてどこまでウイルス除去に有効な対策であったかは疑問が残る。ただ軍隊の装備を身にまとった看護師たちが、せわしなく廊下を行き交う光景はまさに戦場そのものだった。私はSARS患者の病棟に近づこうとしたところで、病院のガードマンに制止され、外につまみ出された。「感染したら死ぬかもしれないんだぞ。怖くないのか?」ガードマンの一言に、私も思わずおじ気づいてしまった。
SARSのような感染病に対応するためには、専門の病棟が必要であったが、当時中国にはそのような病棟がさほど多くなかった。しかも多くの病院で医者や看護師が逃走し、十分な対応ができなくなっていた。
困り果てた中国政府は、事態を隠ぺいし続けた衛生相を解任。北京郊外に工期わずか1週間という突貫工事で病床数1千超のSARS専門病院を建設し、市内の患者の多くをその中に収容した。人民解放軍医療部隊の医師と看護師が決死の治療に当たった結果、6月下旬にはSARSの封じ込めに成功した。不思議なことに、SARSウイルスはその後、世界中からもぱったりと姿を消し、7月にはWHO(世界保健機関)が終息宣言を出すに至った。当時、中国のメディアは「軍がウイルスとの闘いに勝利した」と盛んに喧伝した。
あれからほぼ20年、私には現在習近平政権が進める新型コロナウイルスへの感染防止対策が、どこかSARS封じ込め作戦を踏襲しているように思えてならない。感染拡大の直後、発生元の武漢に工期10日間の突貫工事で病床1千の専門病院を建てたことしかり。徹底した封じ込めによって感染拡大を防ごうという「ゼロコロナ政策」に固執する姿勢しかりである。「ウイルスは闘いによって根絶やしにすべきものだ」というSARSの時のような着想からは、「ウイルスと共存する」という「ウィズコロナ」の考えは生まれ得ないのかもしれない。
ただ、同じコロナウイルスと言ってもSARSと新型コロナはだいぶ性質が異なるものであることがわかってきた。SARSはおそらく、変異する過程で感染力を失い消滅したようだ。一方、現在流行中の新型コロナウイルスは、変異する中で感染力を強め、多くの国が、完全な封じ込めは無理と判断し、「ウィズコロナ」の方向に対策を転じてきている。
にもかかわらず「ゼロコロナ政策」にこだわるかたくなな中国。やはりSARSに勝利したという過去の「栄光」が、習近平指導部の脳裏に影を落としているのだろう。
かとう・はるのぶ
1954年東京生まれ 東京外国語大学卒業 78年NHK入局 香港 北京各支局長 中国総局長 解説主幹などを務めた 現在 武蔵野大学法学部政治学科特任教授 早稲田大学政治経済学術院非常勤講師 著書に『目撃 天安門事件 歴史的民主化運動の真相』『覇王習近平―メディア支配・個人崇拝の命運』『NHK特派員は見た 中国仰天ボツネタ&マル秘ネタ』など