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夕刊1面 大韓航空機「墜落か」/「金日成は拉致知らぬ」の衝撃(重村 智計)2022年8月

 まず大失敗から書く。

 大韓航空機(KAL)007便(乗客乗員269人)は、1983年8月31日午後1時5分(日本時間)、ニューヨークからソウル金浦空港に向け飛び立った。9月1日午前3時25分、ソ連軍機がサハリン上空でミサイルを発射した。東京コントロールの管制塔は、機長の緊急連絡を受けたが音声と機影は消えた。

 

機影消えた時、ゴルフ場に 

  僕はその時、毎日新聞ソウル特派員で韓国にいた。9月1日の朝7時に、日本テレビの龍信也特派員ら三人で、ゴルフ場にいた。朝刊の朝鮮日報に、夕刊に送る記事があったので、「ハーフで帰る」と二人に告げていた。この朝鮮日報の記事で、人生を救われた。

 僕だけ、9時にクラブハウスに上がるとテレビの前に、人が群がっている。「大韓航空機行方不明」の文字。慌てて龍特派員を呼び戻し、支局に急いだ。9時半過ぎに支局に着くと、東京から盛んに電話がかかっていた。

 当時は、携帯電話もない時代。国際電話も直通ダイヤル方式でなく、電話局に申し込み、15分も待たされた。というよりは、新聞記者監視の当局が盗聴の準備をする間、待たされた。

 東京のデスクに、何食わぬ声で「今取材してきました、すぐ原稿送ります」と伝えた。早版の締め切りまで時間があるので、デスクもまだ落ち着いていた。東京は、「サハリン不時着の情報」という。

 この日だけは、つながらない国際電話で助かった。東京は、朝からゴルフで遊んでいた、とは全く気が付かない。

 夕刊最終版用に原稿を送って、午後1時前に念のために韓国外務省の記者室に電話した。朝鮮日報の林東明記者に様子を聞くと、ちょうど外務次官の懇談が始まるという。そのまま、受話器を次官の前に出してもらった。

    外務次官は小さい声でつらそうに、「大韓航空機は、サハリン上空で墜落、撃墜かも」という。林記者に確認すると、間違いないという。慌てて東京に国際電話を入れ、原稿を差し替えた。

    夕刊で、「墜落か」とのソウル原稿が入ったのは、毎日新聞だけだった。ところが、夕刊の1面トップは「サハリンに不時着」の防衛庁記事。僕の原稿は、1面左肩だった。その日の午後には、不時着は否定された。

    夕方になって、デスクから「ごめん、申し訳ない、君の原稿を1面トップにすべきなのに、左肩にした」と、謝りの電話がきた。ゴルフに行っていた身としては、なんとも返事ができない。「いいですよ、終わったのはしょうがない」と、答えるしかない。ゴルフ場にいたとバレないか、ヒヤヒヤだった。

 その夜、龍特派員に食事をおごってもらった。「あのままゴルフしていたら、二人ともクビだった」と、背筋の寒い思いを慰めた。

 

日朝進展の裏にソ連の動き 

 想像できない真実があった。

   1990年9月末の金丸信副総理の訪朝で、日朝国交正常化交渉が始まった。ところが、92年11月に交渉は決裂した。なぜ決裂したか。真実は、拉致問題がらみだったが、当時の日本は拉致に関心がなかった。

 金丸訪朝で、北朝鮮側が日朝正常化交渉を提案したから、日本政府、金丸本人、メディアの衝撃は大きかった。情報を入手していなかった。

    金丸訪朝のおよそ3週間前、9月2日にソ連のシェワルナゼ外相が密かに訪朝し、韓国との国交正常化を通告していた。それで、北朝鮮は慌てて日朝正常化に乗り出した。ソ連に捨てられた北朝鮮が、日本に駆け込んだというわけだ。

 日本はまんまと北朝鮮に乗せられ、駆け引きもせず国交正常化ムードに踊った。金丸に誰も反抗できない空気が、あった。この時期、米国は偵察衛星で北朝鮮の核開発を確認していたのに、日本は正常化の代わりに「核開発放棄」を要求する駆け引きもしなかった。

    僕は当時、ワシントン特派員で米国にいた。国連総会取材で9月30日に国連本部に行くと、韓ソ国交正常化が発表された。9月2日に平壌にいたシェワルナゼが、韓国外相と正常化条約に調印した。直前に平壌にいたとは、夢にも思わない。

     奇妙な調印文書で、国交正常化の日は91年1月1日と印刷してあったが、シェワルナゼは万年筆で90年9月30日と書き換えてしまった。彼は、北朝鮮から「核開発する」と通告され、怒っていた。この日は、僕の誕生日だった。

シェワルナゼは、平壌訪問直後に東京で日ソ外相会談をしたが、北朝鮮訪問と韓ソ国交正常化を日本政府に教えなかった。北朝鮮の核開発についても話さなかった。

 ワシントンにいた僕も、シェワルナゼ訪朝の裏側について何も書けなかった。

 

「書かれたら粛清される」   

 韓ソ国交正常化のおよそ2年後、僕はハワイでの日米韓朝4カ国の民間国際会議に行った。北朝鮮から日朝正常化交渉の李三魯大使が来ていた。会議が終わる頃に、彼が米国務省の韓国部長は来ないのか、と聞く。

    韓国部長が来るというので、参加したという。だまされたのだ。米国と、秘密接触したかった。それがだめなら、日本外務省から来ていたA氏と話がしたいという。A氏は、サンフランシスコ総領事を終えたばかりの外務省幹部だった。

 それで、僕は朝鮮語の通訳をしてほしいと頼まれた。ただし記事にはしないでくれ、という。記事にされたら、自分は粛清されるという。でも、なかなかの度胸だと思った。

  李三魯は、A氏に「日朝交渉は、必ずまとめる。李恩恵(田口八重子さん)問題を出さないでほしい」という。その年の春に埼玉県警が、李恩恵を田口八重子さんと確認し、日朝交渉で日本側が追及していた。

    A氏が「なぜダメなのか」と聞くと、「会談が決裂する」という。なぜ決裂するのか、説明は要領をえない。

 「日朝交渉が終わると、交渉大使は単独で金正日書記に、報告する。前回の交渉後に報告したら、今度李恩恵問題が出たら、必ず決裂にしろと怒鳴られた」

     怒り狂った金正日は、机の上の大きなチェコ製のガラスの灰皿を李三魯に投げつけた。間一髪よけたら、また怒られた。

 A氏は「なぜ李恩恵問題を出したら、決裂するのか。調査しますと言うのが、いつもの北の手口じゃないか」と反論した。

 

「重村さんから伝えてくれ」   

 李三魯は、今回はダメだという。しばらくやり取りしたが、堂々巡りだ。李三魯が「A氏に私から直接は話せない。重村さんに説明するから、それをA氏に伝えてほしい」という。ロビーの片隅で、朝鮮語で衝撃の理由を聞いた。

 「日本人拉致は、金日成主席の許可を得ずに、勝手に実行した。金日成主席にバレたら、大問題になる。将軍様は、後継者を降ろされるかも。主席に伝わらないように、懸命に抑えている。次の交渉で李恩恵問題が出たら、交渉を中止しろと言われている」

 この話をA氏に伝えた。李三魯は、「外務省の首脳に伝えてほしい」とA氏に、何度も念を押した。

92年11月の日朝正常化交渉で、日本側は李恩恵の名前を出した。北朝鮮代表団全員が席を立ち、交渉は決裂した。李三魯は、インドネシア大使に栄転した。李三魯は、金日成主席への拉致情報を遮断したから、評価されたのだ。日本人拉致の真実は金日成に届かなかった。 

  94年5月にワシントンから、5年ぶりに帰国した。日本は北朝鮮核問題で大騒ぎしていた。僕だけ 「北朝鮮は石油がないから戦争できない」と、中央公論誌に書いた。毎日新聞に転職する前、シェル石油で働いていたから、北朝鮮の石油を調べていた。NEWS23の筑紫哲也さんがテレビで話せと、呼んでくれた。94年7月8日に金日成は死んだ。

 

しげむら・としみつ

1945年中国遼寧省生まれ 69年早稲田大学法学部卒 71年毎日新聞社入社 ソウル ワシントンの各特派員 論説委員などを務め 2000年退社 拓殖大学教授 早稲田大学教授を経て 現在 早稲田大学名誉教授 著書に『絶望の文在寅、孤独の金正恩』『日韓朝「虚言と幻想の帝国」の解放』『金正恩が消える日』『外交敗北−日朝首脳会談と日米同盟の真実』など

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