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日産・ルノー提携から23年/「この選択が一番」の行く末(安井 孝之)2022年7月

 土曜の夜に久しぶりに家族で牛しゃぶの鍋を囲もうとしているときだった。

 「ドイツのシュピーゲル誌が、ダイムラーと日産とが日産ディーゼル株の売却交渉をしていると報じているんだけど、当たってくれる?」

 経済部デスクの妙に明るい声が自宅の固定電話の受話器から聞こえた。1998年5月9日のことである。

 日産の当時の経営企画部長の自宅にすぐさま電話を入れると、これまた明るい声でこう答えたのだった。

 「こういう時ってノーコメントって言うんだよね」

 〈あれ、やっぱり交渉中なんだ〉

 その後各方面に電話で取材し、自宅から原稿を送ったのが「日産、ディーゼル株をベンツに売却交渉 再編の波、日本企業へ」という1面トップの記事となった。その夜は遅くに一人で冷めた牛しゃぶを食べ、家族にはあきれられたのを今でもよく覚えている。

 

98年5月に再編の号砲

 自動車担当だった私はその日から世界の大手自動車メーカーを巡る再編取材に放り込まれた。その3日前にはダイムラーと米のビッグ3の一角、クライスラーとの合併が発表され、業界再編の号砲が鳴らされていた。

 再編劇の背景には「100年に1度の大変革」といわれる現在と同じく、環境対応技術への巨額投資の必要性があった。そのうえ先進国市場では過剰設備問題を抱えていた。世界の大手自動車メーカーは合従連衡で合理化を進め、環境技術への積極的な投資をしていくという戦略を取ろうとしていたのだ。

 業界再編で最も注目されたのは経営悪化に陥っていた日産だった。当時、金融システム不安が広がる環境下で、2兆5000億円の有利子負債を抱えた日産は経営破綻さえ危ぶまれていた。社長の塙義一さんが住む北品川の瀟洒な社長社宅に多くの記者が詰めかけた。

 時には一対一でゆっくり話すこともあったが、塙さんはいつも何かにいら立っているように見えた。交渉の現状を知ろうと何度もしつこく聞くと「同じことを聞くなよ。もう終わり」。取り付く島もなく、うなだれて辞去する日々だった。

 経営苦境の日産は交渉が表面化したダイムラーのほか、水面下でルノーやフォードなどとも交渉中だった。塙さんの頭の中には複雑な連立方程式が入り乱れていたのだろう。

 ましてやダイムラーとの交渉は99年3月まで長引いたうえに突然決裂し、直後にルノーとの交渉をまとめなければ資金ショートするという綱渡りの連続だった。イライラが募る日々だったにちがいない。

 

「原罪」抱え孤独な決断

 ルノーとの提携を決断した塙さんは日産を危機から救った経営者として後に評価されたし、私も塙さんが亡くなった際には「日産を救った孤独な決断」というタイトルの評伝を書いた。

 だが塙さんは、外資系メーカーに救いを求めざるを得ないほど経営悪化を招いた責任から逃れられない立場だったことも事実だ。

 なぜなら日産の経営苦境の原因である米国の巨額赤字は96年に社長に就任した塙さんの経営判断の誤りだったからだ。当時の日本メーカーにとってドル箱だった米国市場で日産が稼げなかったのは競争力のある商品を投入できなかったためだ。その米国で日産は長年その場しのぎの拡販を続け、ツケを先送りした。若い頃から米国事業に長く関わった塙さんが社長に就任した後もその悪習は続いた。97年になって一気にその矛盾が噴き出したのだ。

 日産の長期にわたる経営苦境の原因はたくさんあるが、外資系と提携せざる得ないほどの危機を招いた最後の一撃は、塙さんが80年代から担当してきた米国事業の悪化だった。その「原罪」を塙さんは抱えていたからこそ、錯綜した提携交渉で「孤独な決断」を下さざるを得なかったのだと思う。

 歴史を考える時、ifは禁物だが、塙さんが米国事業をいち早く改革していれば、その後の日産の姿はまた別の形になっていたかもしれない。

 

夕刊1面で提携の特ダネ

 当時を振り返ると、もう一人思い出す経営者がいる。日本興業銀行(現みずほ銀行)頭取の西村正雄さんである。

 日産とダイムラーとの交渉が長引く過程で私は98年12月に日銀キャップとなった。自動車キャップには今もフリージャーナリストとして活躍している井上久男さんが就いた。ルノーとの最終交渉に向かうために塙さんは99年3月13日の土曜日、午前11時50分発の全日空機に乗り込み、パリへと離陸した。それを成田空港で確認し、「日産・ルノー提携へ 週明けにも合意 ルノー側出資比率34%程度」と夕刊1面で特ダネを書いたのは井上さんだ。

 その記事中に「交渉は成功するとみている。出資金の調達についてルノーには仏政府や仏金融機関の支援も得ていると聞いている」という取引金融機関のコメントがある。もう23年も前の話である。許してもらえるだろう。それは西村さんが銀行担当記者に話した言葉である。土曜日の午前中に自宅にいた西村さんの発言が特ダネの背中を押してくれた。

 西村さんとは日銀キャップになってから銀行での取材や自宅への夜回りで何度も話をした。私がいつも自動車業界の話ばかりするものだから、西村さんは広報部長に「あいつは金融のことはあまり聞かない。自動車のことばかり」と笑っていたという。

 西村さんは金融不安の中で銀行経営の舵取りで頭はいっぱいだったろうに、過去の自動車業界の再編などについてずいぶん話してくれた。

 日産とルノーとの交渉が決着した後も西村さんは私に「ダイムラーよりルノーの方が良かったと思うか?」と問いかけた。「弱者連合ではありますね。ダイムラーの方が良かったかもしれません」と答えると西村さんは肯定も否定もしなかった。そこに西村さんの一抹の不安をみた。

 その不安がひとまず消えたのは1年後の2000年3月9日だった。西村さんら興銀経営陣とカルロス・ゴーン氏との昼食会があった。「コストカッター」と呼ばれたゴーン氏の舵取りが心配だったが、「やみくもにコスト削減はしない。日産の生産システムや技術はすばらしい」というゴーン氏の発言に西村さんはホッとしたという。

 西村さんは2006年、塙さんは2015年に亡くなった。いずれも「ゴーン改革」で日産の再生が順調に進んでいるように見えた時期だった。それが2018年11月に暗転する。金融証取法違反容疑でゴーン氏が逮捕され、その後の日産は再び厳しい経営を強いられることになる。

 

「どちらが良かったか」の愚問

 2011年に塙さんに「ルノーとダイムラーのどちらが良かったか」という愚問を投げかけた。塙さんの表情は社長時代と同じようにイラッとしたように見えた。「もう終わり!」と言われるかと思ったら、少し違った。

 「結婚だってそうだ。結婚して、あっちの方が良かったなんて考えたらダメになる。人生の出会いは偶然のように見えて必然だ。『この選択が一番だった』と思えるかどうかで人生は良くも悪くもなる。企業同士の出会いも同じだ」

 日産が今、カーボンニュートラルを目指す世界的な潮流の中で技術的優位にあるのは電気自動車(EV)技術で先んじているからだ。ゴーン氏が日産のEV技術に魅せられ、2000年10月に開発の続行を決めた判断が今の日産に生きている。

 経営者の判断の是非は1年や2年ではわからない。何十年も経ってようやく歴史的な評価が下せるに違いない。

 

 やすい・たかゆき1957年生まれ 経済誌・日経ビジネスを経て 88年に朝日新聞社に入社 東京経済部 大阪経済部 経済部デスクを経て 2005年に編集委員 経済面コラム「波聞風問」などを担当 17年に退職 Gemba Labを設立し代表に 著書に『2035年「ガソリン車」消滅』など

 

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