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ロッキード事件「セミ鳴く」前夜/「お前らは馬鹿だ」 異様なサイン(田中 良紹)2022年4月

 1976年2月5日、米国から衝撃的なニュースが飛び込んできた。米国上院の多国籍企業小委員会は、軍需産業のロッキード社が西側各国に秘密代理人を置き、その国の政府高官に賄賂を渡して航空機の売り込みを図っていたと暴露したのである。日本の秘密代理人は児玉誉士夫であった。

 

◆「戦後史発掘」を競い合う

 

 TBS報道局は緊急会議を開き、外信、政治、社会の各部にまたがる取材班を作り、私もその一員となった。実は私はそれまでニュース取材の経験がなかった。TBSのドキュメンタリー番組にあこがれて採用試験を受け、入社してからはドキュメンタリー・ディレクターだったが、6年目に上司から「ニュースもやってみないか」と言われ、社会部に配属された直後にロッキード事件が起きたのである。

 児玉誉士夫は戦時中、上海を拠点に物資調達と謀略工作を行う「児玉機関」を組織し、戦後は戦犯として巣鴨拘置所に収監されたが、釈放されると自民党の前身である自由党に資金を提供して政界の黒幕になった。また全国の右翼団体と暴力組織の頂点に君臨し、それまで取材はタブーとされた。その児玉がなぜ米軍需産業の秘密代理人なのか、私は取材班の一員としてそれを追いかけた。

 まず分かったのは、占領期のGHQによる厳しい情報統制で、新聞やテレビは日米関係の裏舞台を伝えることができなかったことだ。手掛かりは占領が終わった52年に続々出版された暴露雑誌にあった。それを求めて古本屋巡りをするのが私の最初の仕事だった。

 それを手掛かりに私は児玉の関係者に次々インタビューしていった。それは「戦後史発掘」というべき作業で、日本の戦後には知られざる闇があることを知った。当時の新聞とテレビは全社が「戦後史発掘」を競い合い、連日のスクープ合戦だった。メディアは戦後史の闇を解明していった。

 

◆司法クラブの応援要員に

 

 ところが4月中旬、日本の検察庁が米側資料を入手したことで取材の様相は一変する。取材の矛先は賄賂を受け取った政治家に向かい、「戦後史発掘」は突然の幕引きとなった。私も東京地検特捜部を取材する司法記者クラブに応援要員として派遣された。初めての記者クラブ取材だが、そこで見たのは検察当局の厳しい情報管理だった。

 東京地検は午前に検事正、午後に次席検事の記者会見を聞くが、クラブ加盟記者はそれ以外の自由な取材を許されない。取材対象は決められた一部の幹部だけだ。ある日、毎日新聞が夕刊で独自ネタを掲載した。すると次席検事は会見の冒頭「毎日はいるか。いるなら会見はやらん」と言い、毎日の記者が「他社に迷惑をかけたくない」と部屋を出た。それから何事もなかったように会見は行われ、私は記者クラブの異常な取材ルールに愕然となった。

 クラブ記者は午前と午後の会見以外に、夜になると手分けして検察幹部宅を夜回りする。私は高瀬礼二検事正と川島興特捜部長の夜回りを担当した。検事正の夜回りは夜の8時から、それが終わると10時半に帰宅する特捜部長宅に向かう。特捜部長は口が堅いので記者たちから「口なしのコーチャン」と呼ばれていた。

 特捜部長の口癖は「マスコミ性馬鹿説」だった。人間には性善説と性悪説があるが、マスコミは性馬鹿つまり「生まれつきの馬鹿」と言うのである。彼は記者が何を聞いても「バーカ」としか答えない。夜回りの記者は減り続け、気が付けば毎日と共同と私の3人だけになった。

 3人はいずれも正規のクラブ員ではなく応援部隊で、無駄とは知りつつ上司の命令に忠実に毎日、特捜部長宅に通った。6月下旬、検察による贈賄側の一斉逮捕が始まる。丸紅と全日空の幹部が次々逮捕される中、児玉は病気を理由に逮捕を見送られ、政治家逮捕は「セミの鳴くころ」と言われた。

 7月26日夜、検事正は夜回りで「まだセミは鳴いていませんね」と言い、記者が「明日はないですよね。早く出なくてもいいですよね」と念を押すと、「どうぞご自由に」と言った。それから私は特捜部長宅に向かい、いつもの3人で帰宅を待った。

驚いたことに特捜部長が初めて我々を家に入れた。ところが玄関でくるりと後ろ向きに座り、背中を向けたまま沈黙した。「明日逮捕ですか?」と聞くと、「お前らは本当に馬鹿だ」とだけ言った。3人はいたたまれずに退散し、私は近くの公衆電話ボックスから特捜部長の異常を上司に報告した。

 翌早朝、政治家逮捕に備えてTBSは検察庁に見張りを出した。すると午前5時半、見張りから「検察幹部が続々登庁している」と連絡がきた。社の近くのホテルで待機していた私はすぐに検察庁に向かう。検察庁玄関には数社の記者がいるだけで気が付いていない社もあった。職員が玄関に規制のロープを張り始め、「政治家逮捕は間違いない」と確信した。

 

◆降りてきたのは田中角栄

 

 だが誰が逮捕されるのかが分からない。逮捕の可能性のある政治家宅にはすべて見張りがいるのだが、どこからも連絡がこない。7時20分過ぎ、検察庁の玄関に黒塗りの車がすべり込み、降りてきたのは日焼けした顔の前総理の田中角栄だった。私の目の前で右手を挙げるポーズを取り、検事に付き添われて検察庁舎に入っていった。無線機で社のデスクに「田中角栄が地検に入りました」と叫んだが、デスクはすぐにはのみ込めないらしく、「もう一回言え」と3度も聞き返された。

 それまでロッキード事件の記事は司法記者クラブが出稿してきたが、その日から政治部に書き手が代わった。田中角栄の「金権腐敗」が厳しく糾弾され、それが燎原の火のごとく日本列島を覆っていった。

 ロッキード社から児玉誉士夫に渡った21億円は未解明のまま、事件は「金権田中角栄の犯罪」で決着する。児玉を追跡してきた私には違和感が残った。そして検察は「捜査終了宣言」を出すことができなかった。現場の検事から抵抗されたと言われ、検察幹部は「中締め」と言って捜査を終わらせた。

 

◆「コーチャン」の別の顔

 

 「中締め」を機に検察幹部と記者クラブの懇親会が開かれることになった。すると特捜部長から3人に「それには行くな。俺の家に来い」との連絡が来た。検察幹部と記者クラブが懇親会を開いている頃、3人は特捜部長の家で奥さんの手料理で酒を飲んだ。特捜部長は子どもの頃の思い出や検察人生の数々を饒舌に語った。「口なしのコーチャン」のもう一つの顔を我々は見た。

 私は特捜部長は検察幹部と記者クラブの関係に批判的なのかもしれないと思った。それが「マスコミ性馬鹿説」を言わせる理由ではないか。その特捜部長が正規のクラブ員ではない我々3人に田中逮捕の前夜、異様な行動でサインを送ったのである。

 私はロッキード事件を「田中角栄の犯罪」とか「米国が仕掛けた陰謀」とは思っていない。一審判決直後、私は志願して田中角栄担当の政治記者になった。その頃、米国のキッシンジャー元国務長官が目白の田中邸を訪れた。同席した早坂茂三秘書によれば、2人は中曽根内閣の今後と米国のアラスカ原油を日本に輸入する話をしていたという。

 だから田中がキッシンジャーの怒りを買い、ロッキード事件を仕掛けられたという説を私は信じない。また私が知ったのは、田中は金脈批判で総理を辞めたのではないことだ。辞めた理由は他にある。そして最高裁は逮捕の決め手となったロッキード社幹部の嘱託尋問調書の証拠能力を田中の死後に否定した。ロッキード事件は今も未解明のままだと思う。

(敬称略)

 

たなか・よしつぐ

1969年東京放送(現TBSテレビ)入社 「テレビ・ルポルタージュ」や「報道特集」などドキュメンタリー・ディレクター 社会部記者として検察 警察 春闘など担当 政治部記者として官邸 自民党 外務省など担当 1990年米議会中継局C−SPANの配給権を取得して98年に「国会TV」を開局 現在はブログ執筆と政治塾主宰

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