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天安門、銃撃音の中リポート/王丹親子の対面、当時放送されず(川村 晃司)2022年3月

 1989年6月4日未明、私は天安門広場の北を東西に走る長安街の路上にいた。広場に銃撃音が近づいてきたのは午前1時頃からだった。

 

◆眼前で女子学生に銃弾が

 

 「ダッダーン、ダダダーン」と自動小銃の銃撃音が響いた。と同時に私の前にいた女子学生がストンと尻もちをついた。白いシャツの腹部のあたりから胸部にかけて血が噴き出し、真っ赤に染まっていく。彼女はうめき声もあげず、ぐったりとあおむけに倒れた。

 軍と対峙していた学生、市民たちが、わっと後方へ下がりはじめ、群衆も散らばりはじめた。私はカメラに向かい「人民を守る人民解放軍が人民に向けて水平射撃を始めました。銃弾が次々と撃ち込まれています。ひとまずリポートを打ち切ります」。と言ったのを最後に広場の中を逃げまどいながら宿舎のホテル・北京飯店の前にくると、公安警察の一団がホテルへ入ろうとする報道陣一人一人をボディチェックしながらカメラのフィルムやビデオテープを没収していた。

 この光景を見てとっさに同僚カメラマンに「テープチェンジ」とだけ言うと、カメラマンはさっと今まで撮影していたビデオカメラの中の取材テープを、未撮影のニューテープと入れ替えて、取材済みのテープをニヤッと笑いながら下着の奥にしっかりと押し込んだ。公安が我々の前にきて、有無を言わさずカメラをとりあげテープを抜き取られた。そして身分証などをチェックされた後、カメラは預かると持ち去ろうとするので、私は抗議し、このカメラはとても高価なものなので、点検後は返してほしい、と交渉しカメラのシリアルナンバーなどを書いた預かり証を担当者のサインと共に受け取った。

 

◆連行撮影テープ 無事東京へ

 

 天安門での銃撃音が散発的になり、人民解放軍が戦車部隊とともに広場をほぼ制圧して一夜明けた5日の正午ごろ、私は北京飯店のベランダから、前夜に銃撃から逃げまわった広場を見つめていた。解放軍の戦車が縦一列になり、広場に向かってゆっくりと行進してきた。私は戦車の数を26台まで数えた。その時、学生らしき若い男が歩道からひょっこり飛び出してきて、戦車の前に立ちはだかったのである。戦車の列はびっくりしたように停車した。

 急いでカメラマンに声をかけ、昨夜取り上げられたビデオカメラの代わりに8㍉の小型カメラで撮影、リポートしていると、男は戦車の上によじ登り始めた。戦車の中の兵士にしきりに話かけている様子だ。やがて、公安警察らしき人物が2、3人駆けつけてきて、男を戦車からひきずりおろそうとした。

 とっさに私はベランダに立ち上がりリポートを始めたとたん、銃撃音が鳴り響いた。あわてて伏せて、男が連行されてゆくまでを撮影し終えた。部屋の中に入り、撮影できているかテープをチェックしたあと、戒厳令下の中、北京から臨時便などで東京に退避してゆく人たちに撮影済みのテープを分散して運んでもらった。その夜、ホテルの部屋に軍服を着た担当者が二人きて、明日までにホテルを出ていくようにと指示された。やむなく絶好のロケーションでもあった北京飯店から、その日の夜中にバスやトラックがまだ燃えている北京の街角を小走りに駆け抜けて、別のホテルに移動した。

 こうして、天安門での取材テープは無事東京に届き放送されたが、公安当局が一時預かるといったカメラは返却されず、その後はベランダ撮影で威力を発揮した小型予備カメラで取材を続けた。10日後の出国時に北京空港で検査担当者に預かり証を渡して「北京飯店で押収されたカメラを返却してほしい」と要求した。関係部署に連絡するなどひと悶着あったが、結局あのカメラは行方知れずのまま戻ってこなかった。

 天安門事件取材で印象深い人物はなんといっても広場での学生リーダー4人のうち、後に米国に亡命した王丹氏と柴玲氏だ。6月4日の数日前、私は北京大学の学生寮に寝泊まりしていた王丹氏を訪ね、インタビューした。

あなたが尊敬している人物は? という問いに、彼は間髪を入れずに「中国の歴代指導者の中で、最も尊敬できる人物は周恩来だ」と答えた。その時に腰に手拭いをぶらさげた、やつれた初老の人物がやってきて王丹に深刻な顔をして語りはじめた。カメラを止めてくれというので離れて聞いていると、「自宅に帰ってきなさい」「いや戻らない…」という親子の会話のようだった。

 それまで、「尊敬する人物は周恩来だ」と語っていた若者が、困ったような表情を見せ、小一時間話した後、初老の男は下着などの荷を置いて寮を去っていった。後にわかったことだが、初老の男は王丹の父親で大学教授であった。

天安門事件から10年後の1999年、ニューヨーク特派員としてボストンでの天安門事件10周年追悼式の取材で王丹氏と再会した。

 ハーバード大学で東アジア史の研究者生活を送っていた彼はビシッと決めたスーツ姿で「中国にはいつ帰れるかわからない」と、自分の将来を見越したように語っていた。

 

◆「ジャンヌ・ダルク」面影なく

 

 ボストンではもう一人、天安門のジャンヌ・ダルクと呼ばれ、ノーベル平和賞候補にも推薦された柴玲氏にも再会した。私が取材した当時、天安門広場で演説をしていた彼女とは同一人物とはとても思えなかった。

 彼女は中国当局から指名手配中、香港から西欧諸国を経由して米国に亡命するまでに整形手術を受けて容姿を変えていたようだ。彼女はハーバード大学で経済学を学び直し、米国人と結婚していた。声を聞くと、天安門広場に響いた彼女の声が思い出されるようでもあったが、すっかり生活人になっていた。

 この二人が師事していて、天安門広場に集まっていた学生たちの中国民主化運動の精神的支柱であった天文学者の方励之氏は、若い男が戦車の前に立ちはだかっていた6月5日に米国大使館に入り、その後、家族で米国に亡命した。(2012年米で死去)

 

◆聞えよがしに民主化語る

 

 王丹氏と学生寮で会った翌日に私は方励之氏の自宅を訪れていた。インタビューの冒頭、「身の危険を感じませんか?」と問うと、方氏は言葉を発さずカーテンがかかった自室の窓の上と天井を指さした。「盗聴されているのですか?」と聞くと方氏は落ち着いた感じで無言のままうなずいた。しばらく録音を止めて雑談中に「車で来たのなら気をつけて」と言われ、窓から下の車を見ると、取材車の後ろにいつの間にか黒いワゴンが停車していたのが気になった。方氏は最後に「今、一番言いたいことは?」という質問にカッカッカッと笑い、どこかに聞こえるかのような大声で「中国の権力者たちは、世界の民主化の流れをよく見てほしい。社会主義はいま改革を進めており、そのひとつが民主化です。これは指導者が阻止することのできない流れです」。と語っていたのだが、その後、米国ではメディアの取材にはほとんど応じなかった。

 こうした天安門事件での私の取材歴が、中国当局に最新映像カメラを没収されたことと何らかの関係があるのではと思っているのだが…。

 王丹親子の対面や方励之氏のインタビューの核心部分は諸々の事情で当時は放送されなかった。あの天安門事件から間もなく33年、米在住の王丹氏や柴玲氏は今冬の北京五輪をどう見ていたのか。on the spot を使命の一つとするテレビ報道記者として、現場が語りかけてくる事実を多角的にどう記録するか、後輩記者諸兄にはリポートの源泉である言葉の力をさらに磨いてほしい。

 

かわむら・こうじ

1973年NET(現テレビ朝日)入社 政治部 カイロ支局長 報道ステーション移動特派員 この間 中国天安門事件 バルト3国(エストニア ラトビア リトアニア)の独立を取材 湾岸戦争でバグダッドで105日間の取材を敢行後 北朝鮮を継続取材 ニューヨーク支局兼メキシコ支局長など 帰国後はコメンテーターとして政治・外交の解説を担当 2020年8月退社 現在 新潟国際情報大学客員教授 新潟日報客員論説委員

 

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