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日航機墜落事故/共有できなかった墜落地点情報/「長野側」の日航発表、謎のまま(藤森 研)2021年10月

 今年は曇り空だった。8月12日、御巣鷹の尾根の慰霊登山は、コロナ禍で遺族や関係者に限られた。日航123便が群馬県の山中に墜落し、乗客・乗員520人が死亡してから36年。私は、マスク姿の遺族たちをテレビ画面で見ていた。

 1985年8月12日19時すぎ。「日航機がレーダーから消えた!」。だれかが叫び、朝日新聞の編集局は総立ちになった。私は社会部のデスク席わきで夏の連載の記事をチェックしていた。「羽田のオペセン(オペレーションセンター)へ」。社会部長の指示で私は車に飛び乗った。車内無線で新たな指示が来た。「墜落地点がまだわかっていない。羽田に着いたらヘリに乗ってくれ」

 羽田の格納庫で先輩の北山憲治、写真部の近藤悦朗両記者と合流し、社の双発ジェットヘリ「ちよどり」で離陸したのは20時半。一番乗りだな、と世知辛いことを一瞬考えた。眼下の光の海を過ぎ、黒い帯状の山岳地帯にかかっても、墜落現場はわかっていない。「長野県の御座山」「三国山付近」。無線には情報が飛び交う。闇夜に目をこらした。

 

◆漆黒の下界に赤い火が・・・

 

 21時6分。「あ、あれだ」。漆黒の下界、右斜め下に赤い火が点々。その真上の空中に、超低空飛行をするヘリ1機の衝突防止灯が見えた。

 機体の残骸は暗くて見えないが、山火事は点々と燃え広がり、立ち上る煙にヘリが入るとジェットオイルのにおいがした。墜落地点はここで間違いない。ヘリの計器は羽田空港からほぼ304度方向、60マイルを指している。群馬県側らしい。

 すぐさま北山記者と交代で無線機を握り、現場雑観を吹き込んだ。「ぶどう峠付近の現場は、帯状の火が東西約二㌔にわたって、点々と燃え広がっている」「火の散らばり具合が、墜落時の衝撃の強さと破壊のすさまじさを物語っている」「闇の下、乗客の安否はわからない」。降下取材も考え装備を積んでいたが、漆黒の闇で降りられなかった。

 

◆「墜落地点は、群馬」と計測

 

 22時5分。羽田に帰着するや格納庫の精密な地図にコンパスや分度器、定規を当て、墜落地点を確認した。御巣鷹山北斜面。後にわかる正確な墜落現場とは少しずれていたが、やはりそこは群馬県上野村だった。私は電話口に本記担当の記者を呼び、「現場は三国山の北方5㌔。群馬県側」と報告した。

 しかし、日航は「墜落地点は長野県北相木村、御座山北斜面」と発表している。私は次第に不安になった。22時50分、ちよどりで再び現場へ飛んだ。点在する火は10数カ所に減っていた。斜面をなめるように照らしたが、機体は見えない。二度目の計測位置も一回目と同じだ。ヘリを上下させると、はるかに小諸、上田の灯りが稜線の上に見えたり、隠れたりした。明らかに分水嶺のこちら、群馬側だ。

 13日午前1時5分に羽田に戻り、私たちは格納庫のビールでのどを潤した。テレビの伝える墜落地点はまだ変転しているが、自分たちはもう群馬側だと自信を持っていた。

 その頃、社の本記班は迷走を続けていた。ちよどり情報の一方、日航は「墜落地点は長野県の御座山」との公式発表を変えようとしない。自衛隊や運輸省も同じだ。懸命に捜索した長野県警は、「現場は群馬県内と判断している」と発表した。

 

◆各版ごとに変転した見出し

 

 頑なな日航発表、相反する現場情報。8月13日の朝日朝刊1面の見出しは、各版ごとにこう変転した。

 「碓氷峠で炎上か」(8版●)→「長野県山中で炎上」→「群馬県山中で炎上」→「長野県山中で炎上」→「長野・群馬県境で炎上」(14版)

 最終14版で何とか誤報は免れた。発表通りに「長野県に墜落」とした新聞やテレビもあったが、何紙かがやはり「長野・群馬県境に墜落」などとした。「御巣鷹山付近に墜落」と書いた読売は立派だった。

 夜が明けた13日早朝、群馬県の御巣鷹山南方の尾根で日航機の残骸が初めて視認された。損傷の激しい遺体と残骸の中、生存している4人の乗客が発見され、救助された。

 その一人、落合由美さんが後にした証言を読み、私は衝撃を受けた。墜落当時、4人以外にも何人もが生きていた、というのだ。墜落後の状況を落合さんはこう語っている。

 「あたりには荒い息遣いで『はあはあ』といっているのがわかりました。まだ何人もの息遣いです」「突然、男の子の声がしました。『ようし、ぼくはがんばるぞ』と、男の子は言いました」「ヘリコプターの音が聞こえました。(中略)けれど、ヘリコプターはだんだん遠くへ行ってしまうんです」「このときもまだ、何人もの荒い息遣いが聞こえていたのです。しかし、男の子や若い女の人の声は、もう聞こえてはいませんでした」(吉岡忍『墜落の夏』より)

 もっと早く、正しい墜落地点が共有できていたら、より多くの人の命を救えたのではないか。墜落地点は群馬だというちよどり情報を、同僚が日航や自衛隊にどう「当てた」のかはわからない。結果的に情報は生きなかった。

 

◆自衛隊の判断遅れにも疑問

 

 現場上空に着いたとき、先着していたヘリがいた。当夜、百里基地を発進した自衛隊救難ヘリV107が20時42分に現場に到達しており、私たちが現場上空で見たのはこのV107であろう。だが、私たちでも群馬側と判断した墜落地点を、自衛隊機がなぜ正確に報告できなかったのか。疑問が残った。

 自衛隊幹部は『文藝春秋』誌で、真っ暗な夜で下の地形を確認できない場合、航空機による地点確認は通常数キロの誤差が生じる、と弁明した。(危険なので)マスコミのヘリは一機も飛ばなかったなどと単純な事実誤認も含む弁明記事だった。

 朝日新聞の防衛庁担当記者を通じて同庁にした私の質問への回答も、ほぼ同様の内容だった。

 運輸省航空事故調査委員会の87年6月の報告書は「捜索・救難活動の状況」に関し、こう記している。

 「(防衛庁は)ヘリコプタ(ママ)1機を19時54分発進させ、同機は20時42分現場上空に到着した。(中略)捜索活動を行った結果、8月13日04時39分日航機の残骸を発見し、墜落現場を確認した」

 事故調は、20時42分に自衛隊ヘリが現場に「到着」したとしつつ、8時間後まで「確認」できなかったという説明で済ませ、救助の遅れについて口を拭った。

 少し時間的な自由ができたとき、私なりに取材をした。事故当時防衛庁長官だった加藤紘一氏は協力的で、秘書官が詳細をメモしていたはず、と照会してくれた。元秘書官は当時の記録を送ってくれた。

 そこには、百里からF4戦闘機、次いでV107ヘリが発進し、ヘリは20時42分に現場に到着した、と書かれている。だが肝心の位置確認に関しては、「上空からは漆黒の中にポツンポツンと炎があるだけで、どこが山でどこが道路かなど地形は全くわからない。従って地図上のどこという場所が確定できないのである」などとだけ記されていた。

 Ⅴ107機の乗組員名を割り出したが、すでに死去している人もいた。私の取材はそこで挫折した。

 たしかに私たちの計測にも、本当の墜落地点からは、ずれがあった。しかし、群馬県上野村の山中であろうという判断はできた。自衛隊、運輸省、日航がなぜ翌朝まで「墜落地点は長野側」と、間違った発表をし続けたのか。私には今も謎だ。

 

 ふじもり・けん

 1974年朝日新聞社入社 東京社会部 朝日ジャーナル編集部 名古屋・東京社会部次長 論説委員 編集委員などを経て退社 この間の1993~95年新聞労連委員長 2011~20年専修大学教授 現在 日本ジャーナリスト会議代表委員 著書に『日本国憲法の旅』 共著に『新聞と戦争』など

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