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「911」米同時テロから20年/記憶に残る圧倒的な「無言」/異臭の中、文明論は書けず(河野 博子)2021年9月

 米国主導の「対テロ戦争」の起点になった「911」。アフガニスタンのほぼ全域を手中に収めた反政府武装勢力、タリバンが首都カブールに進攻して大統領府に入り、米国はじめ各国の大使館が撤収――という報道を横目に、あの日を思い起こした。

 世界貿易センターツインタワーが崩落するとは思いもよらなかった。

 8:46 ノースタワーに航空機激突

 9:03 サウスタワーに航空機激突

 9:59 サウスタワー崩落

 10:28 ノースタワー崩落

 当時、ニューヨーク支局長だった私が支局に駆け込んだのは、二機目激突の直後だった。それからの数時間は思い出したくもない。私はその時支局にいた唯一の日本人だったので、東京からひっきりなしにかかる電話に対応し、記者や助手に連絡して現場に向かってもらった。それから、世界貿易センター内の企業に電話をかけ続けた。締め切りとの関係で現場急行が間に合わない場合、現場近くに電話を入れて状況を聞く、という「事件取材のイロハ」に従ったつもりだが、本当にばかだった。

 それは、日本でのちっぽけな取材経験を吹き飛ばす大事件だった。

 

◆支局、ビルからの退去迫られる

 

 9月11日朝、ニューヨークは晴天で、抜けるように青い空が広がった。

 ニューヨーク支局の記者数人は、サンフランシスコ講和条約50周年に関連した仕事で出張先のサンフランシスコから戻ったばかりで、遅めの出勤予定だった。ニュースの少ないスローな朝。私はマンハッタンの自宅から歩いて25分ほどの支局へと、銀行に寄ったり、コーヒーを買ったり、のんびりと向かった。

 ベテラン助手からの電話により、異常事態を知った。携帯電話が不通になるなか、この助手は何度もトライした揚げ句、やっとつながった電話でテレビに映る状況を知らせてくれた。走った。支局に着くと、そこにいた若い助手は「河野さん、僕の伝言を聞いてくれましたか」と呑気なことを言う。緊急時には、電話の留守電メッセージを聞いている余裕はない。とにかく相手をつかまえて直に伝えることが重要だ。

 携帯電話やインターネットの電波の不安定な状態は続いた。夕方、支局が入るビルの警備員ら一群の人たちがやって来て、退去を迫られた。安全が確保できないという。冗談じゃない。あれこれ理屈を申し立て、なんとかしのいだ。街全体が非常事態モードに切り替わり、難題が次々に出てきた。契約して使っていたハイヤーは営業を中止。支局ビルへの出入りも厳しく制限された。主な空港が閉鎖され、数日後、東京や大阪からの応援組はあの手この手でニューヨークに入ったが、ホテルはどこも外国人お断り。ホテルの部屋や作業スペースを確保するのが一苦労だった。

 この時のアメリカ総局長は、1996年12月に発生したペルーの大使館占拠事件で一緒に現地取材をした水島敏夫氏。パソコンなどの予備機を東京に発注し、出張応援組に運んでもらうなどの手配をしてくれた。水島氏の予想通り、パソコン、ファックスなどの機材がどんどん壊れた。非常時には、過剰な使用によりモノが壊れることを初めて知った。

 

◆日本人遺族に頼まれ、にわか通訳

 

 「911」に終わりはなかった。事件から1週間、1カ月、3カ月、半年、1年後、2年後…と節目ごとの紙面づくりは続いた。

 アフガニスタン、イラク戦争と続き、国連担当の記者は大車輪の忙しさに見舞われた。節目の追悼式典の取材や、不穏な動きが出た北朝鮮の関連は私が担当した。

 2002年、事件から1年の取材は忘れられない。ニューヨークに来た日本人遺族には、取材になかなか応じてもらえないことが多かった。社会部から一人、若手の記者を派遣してもらった。二人で市内のホテルに片っ端から電話をかけ、遺族の名簿に名前がある人の部屋につないで、と頼んだ。宿泊先がわかった遺族に「話を聞かせてください」とお願いする手紙を書き、ホテルのフロントに預けた。

 やっとのことで連絡がついた遺族の一人から、「あす息子の友人たちによる偲ぶ会があるが通訳の都合がつかなくなった。通訳をしてくれるなら、取材に応じたい」と提案された。

 私は入社10年目に米コーネル大大学院に留学したが、社会部の先輩たちから「国際詐欺」と指弾されたほど、英語力は貧しかった。もちろん通訳の経験はゼロ。しかし背に腹は代えられない。

 追悼式典前夜の9月10日、ノースタワー105階にあった債券仲介会社で為替トレーダーだった白鳥敦さん(当時36歳)の友人約30人が、ダウンタウンのレストランに集まった。私に通訳を依頼したのは、敦さんの父、晴弘さん(当時62歳)。この時の様子は、12日付朝刊社会面の一コマになったが、字になったのはほんの一部に過ぎない。

 女性が私の腕をつかみ、目に涙をためながら、「ねえ、お父さんに伝えてほしいの」と言う。聞けば、敦さんは父が母と離婚した事情などをめぐって父に対し深い葛藤を抱き、苦しんでいたという。突然、命を絶たれた敦さんの心はこの女性の胸に重く残っていたようだ。いつの間にか、私は数人の女性たちに囲まれ、彼女たちが生活を共にし、泣き、笑った敦さんについて聞かされた。

 高校卒業後にアメリカに渡り、敏腕トレーダーになった敦さんは、米国人の仲間に溶け込み、女性たちに心をさらけ出し、彼女ら彼らと深く交わった。私はその歩みを思い、人としての力に驚かされた。

 晴弘さんとはその後もニューヨークや東京で会った。ある時、覚えたての手品を見せてくれたことがあった。アフガニスタンに行くことを計画中で、子どもたちと心を通わせるために習ったのだという。「ビンラーディンらテロリストにも言い分はあるだろう。アメリカだけに正義があるわけではない。第二、第三のテロの可能性を少なくしたい。アフガニスタンで教育支援活動をしたい」と話していた。

 その活動がどうなったのか、取材が及ばず、「書かなかった話」になってしまった。

 

◆「なぜ」に耐えるひとびと

 

 「911」から3日後、読売新聞は「テロの衝撃波」と題する計5回の連載を始めた。最終回に書くよう東京から命じられたが、私の原稿はボツになった。今、その連載を読み返してみると、全体のトーンは〈米国民の怒りは激しく、戦時体制に入った〉というもので、毛色の違う私の原稿が採用されなかったのは当然だった。しかし、私がいまだに理解できずにいるのは、当時の国際部長による「文明論を含めるように」との念押しだった。

 いまなお記憶に残るのは、マンハッタンの街角で、小さなロウソクを手に集まる人々の光景だ。夕暮れ時、路地という路地、道路や広場で、人々は押し黙ったまま、じっと立ち尽くした。祈りも、歌も、演説もなかった。圧倒的な無言。多文化共生を目指すニューヨーカーたちは、「なぜ」という思いに耐えているように思えた。

 米社会の分裂、勢力を増す中国、世界各地の民主主義的価値の抑圧、拡大する所得格差…。そして終わりの見えないコロナ禍。こうした現在から振り返ると、「911」はグローバリゼーション、米国型資本主義の終わりの始まりだったのか。あるいは、人間活動が地球の生態系をゆがめる「人新世」の終焉は近いのか。

 グラウンドゼロから異臭が漂ってくるなか、「文明論」を書くことはできなかった。それは今も変わらない。

 

 こうの・ひろこ

 1979年読売新聞社入社 東京社会部で江東支局 サツ回り 都庁 環境庁担当 遊軍 米コーネル大大学院留学 社会部遊軍 都庁クラブキャップ ロサンゼルス特派員 社会部次長 ニューヨーク支局長 編集委員を経て 2018年2月退社 現在フリージャーナリスト 大正大学客員教授 著書に『アメリカの原理主義』『里地里山エネルギー』など

 

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