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中台関係巡る「92共通認識」/読みきれなかった京劇の思い(金子 秀敏)2021年8月

 中国共産党の建党100周年を祝う式典が7月1日、北京の天安門広場で開かれた。習近平国家主席が長い演説をした。

 その中で香港問題と台湾問題に触れた。香港についてはこう述べた。「『1国2制度』(中略)を全面的かつ正確に貫き、(中略)中央の全面的管轄権を徹底させる」

 

◆中国は「堅持」、台湾は「存在せず」

 

 「1国2制度」は結局「1国1制度」だという宣言に等しい。テレビのニュースは、人民服を着用した習主席の演説に続いて、その日の香港国際空港の様子を伝えた。英国に移住する家族が出発ゲート前で老いた親と抱き合って別れを惜しんでいた。「1国2制度」に賭けた香港人の希望は無残に消えた。

 習主席は、台湾については、こう述べた。「一つの中国の原則と『92共通認識』を堅持し、祖国の平和統一のプロセスを推進する」

 中国は「1国2制度」ではなく「92共通認識」を迫る。しかし、台湾の政権党、民進党は「92共通認識」は存在しないと拒否している。野党、国民党は「92共通認識」を認めるものの、中国とは解釈が異なる。

 一昨年、習主席は「『台湾同胞に告げる書』40周年」の演説で、「92共通認識」など今回と同じ文言を使ったうえ、「武力の使用を放棄することを約束しない」と武力統一へ一歩踏み込んだ。中国が台湾に突きつける「92共通認識」は、地雷の信管のような危うい存在になってきた。

 だが、約30年前の「92共通認識」について、現役の記者はどれほど関心を持っているだろうか。日本の新聞には「台湾海峡危機」の見出しが踊っているが、「92共通認識」について詳しい解説は見た記憶がない。

 「92共通認識」で思い出すのは、1995年、台湾の高雄市で開催された国際フォーラム「アジア・オープン・フォーラム」に参加した時に見た台湾の財界人、辜振甫氏の姿だ。

 当時台湾は、87年の戒厳令解除から96年の初の民選総統選挙で李登輝総統が当選するまでの、嵐のような民主化過程にあった。

 国際環境も大きく変化した。中国と米国の国交が始まった1979年1月1日、中国は「台湾同胞に告げる書」を発表し、台湾に経済交流を呼びかけた。

 

◆李総統に対する抗議だった

 

 中国と台湾の民間窓口機関による経済交流が動き出した。台湾側は「海峡交流基金会」、辜氏はその理事長だった。中国側は「海峡両岸関係協会」、会長は汪道涵元上海市長。

 両者が対話を始めるために克服しなければならない問題があった。

 中国(中華人民共和国)の共産党政権と台湾(中華民国)の国民党政権は国共内戦の敵同士。どちらも自分の方が中国全土を統治する唯一正統な政権であるという「一つの中国」の立場をとっていた。

 このため「一つの中国」の再定義が必要になり、92年、香港で窓口機関の協議が行われた。これが「92共通認識」だ。翌年、シンガポールで汪会長と辜理事長の会談が開かれ、そこで確認された。

 不思議なことに、共通認識の具体的内容ははっきりしていない。台湾側では、国民党が「『一つの中国』が中華民国を指すか、中華人民共和国を指すかは、双方がそれぞれの主張をする」という妥協策だったという解釈をした。

 一方、総統を退任後、国民党を離れた李登輝氏や独立色の強い民進党は「合意はない」と主張した。これに対して、中国は「92共通認識を堅持せよ」と言うものの、具体的な共通認識の詳細については明らかにしていない。

 その後の報道によれば、汪氏と辜氏との間では国民党の解説するような合意が成立したものの、後に台湾側で李総統がこれを拒否したという説が有力だ。

 アジア・オープン・フォーラムの会議が開かれたのは、李総統が「92共通認識」を否定する発言をしていた頃だった。高雄市内のホテルで会議を終えた参加者は、台湾本島最南端の景勝地、鵝鑾鼻のリゾート施設に移動した。

 大ホールで李総統があいさつをした後、辜氏が伝統的な京劇の衣裳をまとい、立派なつけヒゲをつけて登場した。辜氏が京劇の愛好家であることはよく知られていた。遠くて声はよく聞こえないが、京劇の所作は見えた。

 そこへ東京から出張してきた台北駐日経済文化代表処の張超英広報官が近寄ってきて耳元でささやいた。「気を付けてくれ。台湾人が京劇をやるのは、自分は中国人だと言う時だから」

 その意味がすぐには理解できなかったが、辜氏と李総統との間に気まずい空気があることは感じ取れた。

 なぜ辜氏は李総統の前で中国人というアイデンティティーを主張したのだろうか。それを李総統側はなぜ警戒したのだろうか。

 辜氏は台湾中部、彰化の名家の出身で、父、辜顕栄氏は戦前、日本の貴族院議員を務めた。昔から台湾に住む「本省人」だが、祖籍は福建省で、中国人だという自負心を持っていても不思議はない。

 だが、辜氏が「92共通認識」の当事者として、あえて李総統の前で中国人アイデンティティーを披露したとすれば、「92共通認識」を拒否した李総統に対する政治的な抗議だったのだ。李総統が当時所属していた国民党内には対中政策をめぐる亀裂があったのだ。当時はそれが読めなかった。

 李総統が「92共通認識」を拒否した理由は、「一つの中国」が米国の台湾政策に反するからだろう。

 さかのぼると、米国など連合国と日本が結んだサンフランシスコ条約には、日本は台湾の主権を放棄すると書かれている。しかし、その後の台湾の帰属先は書かれていない。台湾の地位は未定と理解できる。

 サンフランシスコ条約に先立つルーズベルト米大統領とチャーチル英首相の「大西洋憲章」では、領土不変更や民族自決など、戦後秩序の原則が確認されていた。

 

◆台湾が台湾の地位を決める

 

 「台湾の地位未定」論に立てば、台湾が将来、中華人民共和国に帰属するか、台湾地区を統治する中華民国という現状を維持するか、台湾独立を選ぶかは、中国が決めるのではなく、台湾住民の自決権にゆだねられるという論理が成り立つ。

 台湾独立論の根拠として引用されることの多い「台湾の地位未定」論は、本来サンフランシスコ条約締結以来、米国の台湾政策の土台であり、米国の台湾防衛の根拠となっている。

 中国の「一つの中国」論は、大陸と台湾が不可分の中国領土であると「台湾の地位未定」論を否定している。これを受け入れれば台湾の自決権を放棄することになる。台湾民主化の先頭に立ってきた李総統は、辜氏との関係を悪化させても容認できなかったのだろう。

 バイデン米大統領が4月の日米首脳会談を皮切りに、米韓首脳会談、米英首脳会談、主要7カ国(G7)首脳会談などの首脳外交を展開した。ほとんどの会談で中国との対抗と「台湾海峡の安定」が議題になった。英国との会談では新大西洋憲章にまで話が及んだ。

 習主席の共産党建党100周年演説を聞き、時計の針が逆転するような思いに襲われたが、バイデン大統領も同じような勢いで米中関係の針を逆転させている。どこまで戻れば止まるのか分からない。

 

 かねこ・ひでとし

 1973年毎日新聞社入社 政治部 北京特派員 香港支局長 論説副委員長 専門編集委員などを経て 2014年退社 現在 毎日新聞客員編集委員 「サンデー毎日」にコラム「世界透視術」を連載

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