ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


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中国取材今昔物語/消された映像の記憶(倉澤 治雄)2021年5月

◆46歳で想定外の北京駐在に

 

 記者人生を振り返ると、およそ「とくダネ」や「スクープ」とは無縁だった。司法記者クラブキャップ時代は「ゼネコン汚職」で抜かれっぱなし、一連の「オウム真理教事件」の発端となった「公証人役場事務長逮捕監禁致死事件」では警視庁キャップとして捜査幹部に裏取りに行くと、「日テレさんも来ましたか、最後ですな」と鼻でせせら笑われた。

 入社以来、ひそかにパリ特派員を希望していたが、「行け」と言われたのは北京だった。すでに46歳になっていた。1997年1月6日、家族とともに雪の降りしきる北京に降り立った。「你好(ニイハオ)」と「謝謝」しか知らない私は途方に暮れた。

 赴任直後から北京では大きな出来事が相次いだ。2月初め北朝鮮の黄長燁書記が脱北し、北京の韓国領事館に駆け込んで亡命を求めた。朝陽区にある領事館の前で極寒の中、幾日も張り込みを続けた。そうこうするうちに中国の最高指導者鄧小平氏の容体が悪化した。張り込みを続けていた外国人記者の一群は鄧小平氏が入院していた「人民解放軍301病院」へと取材現場を移した。鄧小平氏は2月19日未明、逝去した。ひとつの時代が終わりを告げた。香港返還もこの年である。6月30日から7月1日にかけて、盛大な式典が香港と北京で挙行された。

 赴任する前、幾人もの専門家に教えを乞うた。その中の一人、窪田忍文化学園大学助教授(当時)から、「中国に行ったらひたすら人間を観察してください。ヒューマン・ウオッチほど面白いものはありません」とアドバイスを受けた。私は忠実にそれを実行した。任期が終わる2000年6月までに、32ある中国の省・自治区・直轄市のほとんどすべてに足を踏み入れた。

 

◆「新疆村」で無念のテープ没収

 

 テレビは新聞と異なり、「映像」を撮らなければならない。現場でトラブルとなり、拘束され、ビデオを抜き取られることもしばしばだった。印象に残るのはかつて北京に存在した「新疆村」が取り壊されたときのことである。98年3月10日と記憶している。北京ではかつてウイグル族出身者が街のあちこちで「羊肉串」を焼いていた。とりわけ市西部甘家口の「新疆村」はシルクロードを思わせる街並みとエキゾチックなレストランが立ち並び、人気のスポットとなっていた。

 ある日「新疆村」が道路の拡張と環境問題解決のため、取り壊されるとの話を聞きつけた。早速、北京市政府に取材を申し込み、許可を得てカメラマン、助手とともに取材に出かけた。羊肉の焼き饅頭を頬張る人、民族衣装で踊るウイグル女性、独特な楽器で奏でられる民族音楽、そしてインタビュー取材が終わりかけたころ、中国の「公安(警察)」がやって来た。撮影を制止しようとするので、取材許可証を見せた。すると「許可証には撮影を許可するとは書いてあるが、インタビューしてよいとは書かれていない」と難癖をつけ、カメラからテープを抜き取った。長時間の拘束は免れたが、映像を失ったことが残念でならなかった。翌日、民生用の小型カメラで取材に行くと、「新疆村」は跡形もなく消えており、ガレキだけが山積みとなっていた。

 前年の97年2月5日、新疆ウイグル自治区グルジャ市(伊寧市)で大規模な抗議運動が発生した。イスラム教で神聖なラマダンの最中に、モスクで祈りを捧げていた若いイスラム教徒が逮捕・監禁されたことから暴動となり、中国人民解放軍の発砲により多数の死傷者が出た。今日に至るまでテロは続く。

 シルクロードの要衝、新疆ウイグル自治区は実に美しく魅力的な地域だ。首府ウルムチには生き生きとしたバザールが点在し、観光地として人気のトルファンには火焔山、ベゼクリク千仏洞、アスターナ古墳群、葡萄溝などがある。日が落ちるとあちこちで夜市が開かれ、饅頭や羊肉を焼く香辛料の香りに包まれる。エイティガール・モスクや緑のタイルが美しいアパク・ホージャの墓があるカシュガルは宝石のような街だ。酷暑の夏、45度近い砂漠からの熱風を肌に受けながら、旧市街の露店で長い時間をかけて飲んだ「八宝茶」の味は忘れられない。日本に住むウイグル人は「古き良きカシュガルはもうありません」と語る。耐震性の不備を理由に旧市街の建物はすべて取り壊されたのだという。「強制収容所」「強制労働」「強姦」「市民の常時監視」、そして「虐殺」が繰り返されているのではと、今、世界が注目している。

 

◆法輪功取材で「公安」に囲まれる

 

 テープを抜かれて悔しい思いをしたのは99年4月に起きた「法輪功事件」も同様だ。ひたすらヒューマン・ウオッチを続けていた日曜日、中国要人が住む「中南海」で異様な光景に遭遇した。数千から1万近い人々が、北京で最も警戒厳重な「中南海」を静かに取り囲んでいたのである。何が起きたのか全く分からず、初老の男性に「何をしているのか?」と問うと、ひと言も言葉を発せず、紙切れに「法輪弟子」と書いて渡された。静かなデモは夜まで続き、午後10時頃、ようやく三々五々、静かに散っていった。その間、二人のボディーガードを従えた政治局常務委員曽慶紅氏が人々の輪の中に入り、様子をうかがっている姿を目撃した。中国共産党も何が起きたのか分からなかった証しである。

 数日後、再びデモがあるとの情報を得た。小型カメラを紙袋に仕込んで、早朝から「中南海」に向かった。今回はおびただしい数の「公安」と「武装警察」が物々しい警戒態勢を敷いていた。「要員」を乗せたバスやトラック、徹夜で警備したことを物語る弁当箱の山、連絡を取り合う公安の姿など、「いい『絵』が取れた」と内心小躍りした。あと50㍍行けば長安街だ。タクシーで支局に戻り、映像を伝送すれば「昼ニュースでスクープだ」と思った瞬間、武装警察の一人が私の隠しカメラを見破った。たちまち「公安」に取り囲まれ、近くの小屋に連れ込まれた。「お前は何年北京にいるんだ」「2年です」「じゃあ、ここがどこだか分かるだろう」といった会話の後、テープを抜き取られた。幻のスクープ映像となった。

 

◆3カ月粘り新型ミサイル撮影

 

 1999年は建国50周年の年だった。10月1日には軍事パレードが予定されていた。西側駐在武官の間でひそかに語られていたのは、新型大陸間弾道ミサイル「東風31号」が軍事パレードに登場するのではとの情報だ。登場するなら北京近郊で訓練しているはずである。ある東欧の駐在武官から北京郊外の「良郷空港」で訓練しているとの情報を得た。支局の車はナンバーで身元が割れる。途中までタクシーを使い、あとは人力車で近づいた。行ってみると何とものんびりした空港だった。「軍事禁区」の張り紙はなく、地元の人は自由に出入りしていて拍子抜けした。

 それから3カ月、ひたすら通い続けた。ある時見たこともない巨大なトレーラー群が出現した。数台がグランドのような滑走路で車列を組んでパレードの訓練を行っていた。「これが東風31号だ」と確信した。ビデオを知人に託し、東京の本社に届けた。専門家の判断は「間違いない」とのことで、無事放送にこぎつけた。ある北京の駐在武官は、「我々が得ていた映像とは全く異なっていた。スクープだ」とたたえてくれた。

 振り返ればおおらかな時代だった。今はどこに行ってもすべての行動が監視されている。顔認証機能付きの監視カメラ6億台が14億の人々をわずか1秒で識別できる時代だ。中国のデジタル革命は一体どこに行き着くのか、科学と社会のありようを見据えながらこれからもウオッチしていきたい。 

 

くらさわ・はるお

 東京大学教養学部基礎科学科卒 フランス国立ボルドー大学大学院修了(物理化学専攻)後 1980年日本テレビ入社 科学技術 防衛 司法 警察 外報 北京支局長 経済部長 政治部長 メディア戦略専任局長 解説主幹 2012年科学技術振興機構中国総合研究センター・フェロー 13年副センター長 17年科学ジャーナリストとして独立 著書に『原発爆発』(高文研) 『中国、科学技術覇権への野望』(中公新書ラクレ)など

 

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