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元官房長官・梶山静六さん/「武闘派」の柔軟性と人間力(佐藤 千矢子)2021年2月

 「武闘派」「軍師」「策士」など、故・梶山静六元官房長官には多くの呼び名がある。最初に取材したのは、そうした評価が定着し、自民党最大派閥・竹下派の「七奉行」の一人として、政界を動かしていた時代だった。

 出会いは不幸だった。1990年9月に海部内閣で法相に就任すると、梶山氏は不法就労外国人の摘発を視察し、それを説明する記者会見で人種差別発言をしてしまった。

当時の政治家とメディアの関係は今からは想像しにくいかもしれない。「記者会見で質問をする記者は馬鹿だ。聞きたいことはサシで聞け」という指導があった。しかも相手は大物政治家。穏便に済ませたいという空気が、政治メディア側にも流れていたと思う。

 だが、駆け出しの政治記者だった自分にはそんな理解は及ばず、厳しい質問を飛ばし続け、梶山氏やその周辺から、にらまれた。

 普通なら話はここで終わるが、約1年半後に梶山国対委員長の担当となり、幹事長、官房長官へと続く番記者生活が始まった。

 

■怒られ続けた番記者時代

 

 当然、なかなか相手にされない。どこで誰に会い、どんな政治の裏工作をしているのか、把握できない。断片情報でパズルを埋めるようにして、政治の動きを頭の中で組み立てる日々が続いた。

 甲高い茨城弁で、突然、怒り出す様子はよく「瞬間湯沸かし器」に例えられた。週刊誌に記者との懇談の内容が漏れ、国会の廊下で「あんたがしゃべったのかっ」と怒鳴られたこともある。

 官房長官時代、加藤紘一幹事長との路線対立をめぐる企画記事を書いた時、なかなかの出来だと自負したが、そこでも怒られた。

 見出しの名前と写真が、やや左下に梶山氏、右上に加藤氏という配置になったため「なんで加藤の名前が上なんだっ」と言う。

 「ハコ記事では、横見出しの下に縦見出しが2本並んだ場合、左の縦見出しの方が偉いのです」と説明したが、納得しなかった。

 楽しかった思い出は多くはない。それでも忘れがたいのは、私心ではなく国を憂う思いが痛いほど伝わってきたからだろう。

 政治家として言葉を駆使して勝負する姿、政策と政局のどちらもおろそかにせず、物事を動かし、人を動かし、挑戦し続ける姿には、圧倒的な魅力があった。

 よく一緒に酒も飲んだ。キンキンに冷えたビールがお気に入りだった。酒が入ると、やさしく陽気な素顔や、陸軍航空士官学校出身で戦争を知る世代ならではのリベラルな一面がのぞいた。

 

■「善+善+善は不善だ」

 

 選挙制度改革論議では小選挙区制導入に消極的で、自民党下野のA級戦犯にされたが、官房長官として表舞台に返り咲き、98年に自民党総裁選に挑戦した。

 当時のことを書いた自分の記事を読み直すと、梶山氏のこんな言葉に出会った。

 「善+善+善は不善だ。最初は善をなすことで秩序維持できてよかったものが、次第に自分のためのものになり、ついに壊すことができなくなる」「私はまだ壊す能力は持っている」

政治改革論議では「激変緩和」が口癖で「破壊」を恐れた梶山氏だが、晩年は金融・財政政策で「急進的構造改革」を訴えた。最前線で闘い続けた人生を支えたものは、過ちを認めることをためらわない柔軟性と、人間力だった。

 

(さとう・ちやこ 毎日新聞社論説副委員長)

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