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「唯一の好機」、92年の日露領土交渉/「秘密提案」書かずに悔恨残る(名越 健郎)2020年10月

 安倍晋三首相が悲願とした北方領土問題の解決は、首相の病気退陣により最終的に破綻した。安倍政権は戦後最もロシアに友好的な政権だったが、ロシアには通用しなかった。最後は「領土割譲禁止」を含む憲法改正という強烈なしっぺ返しを受けた。

 「私とウラジーミルの手で必ず平和条約を締結する」などと期待をあおった首相の責任は重いが、交渉が難航した最大の理由はプーチン政権がすっかり国粋主義外交に転換したことにあろう。

 

◆冷戦後、領土割譲容認の動きが

 

 筆者は、ソ連による北方領土占拠後の75年間で、日本が3島以上を獲得する形で領土問題を解決できた機会は、1992年の一時期しかなかったとみている。91年末にソ連邦が崩壊し、新生ロシアがスターリン外交を否定し、北大西洋条約機構(NATO)加盟まで検討していたあの時期である。

 当時、ロシア経済は大混乱し、市場経済移行で大量の外貨を必要としていた。一方の日本は「冷戦の勝者」といわれ、国内総生産(GDP)は世界の16%を占め、現在の中国の水準だった。92年の日本のGDPはロシアの42倍で、ロシア社会には最先端を行く日本の援助を受けられるなら、領土割譲は仕方がないという雰囲気があった。

 急進改革派のエリツィン大統領は、「戦勝国が敗戦国の領土を奪うのは間違いだ」「北方領土問題を必ず解決する」と公言していた。「敗戦国には領土を要求する権利はない」とする現在のラブロフ外相とは正反対だった。

 だが、この千載一遇の好機に、日本外交は動かなかった。91年から93年までに、ゴルバチョフ、エリツィンと首脳が3度続けて訪日したが、日本の首相は1度もモスクワに行かなかった。「4島返還」に固執して、多角的な外交を展開せず、圧倒的な経済力を外交カードに利用できなかった。

 プーチン政権の強硬外交に手を焼く外務省ロシア・スクールの中には、「なぜあの時、一気に解決しなかったのか」と担当者を批判する人が少なくない。当時の総理が「宮沢喜一」ではなく、「安倍晋三」だったなら、平和条約が締結されていたかもしれない。

 ソ連崩壊前後に時事通信記者としてモスクワに駐在していた筆者も、あの時もっと日露関係の取材・報道をしておけば……と悔やむことがある。

 92年が絶好のチャンスだったが、交渉のモメンタムは長く続かなかった。市場経済改革がハイパーインフレを招いて国民の不満を高め、4月ごろから議会保守派のエリツィン攻撃が拡大した。エリツィン外交も次第に保守化し、9月の訪日をドタキャンしたことで、交渉機運は遠のいた。

 

◆外相来日時の秘密協議情報入手

 

 この間、筆者は4月ごろ、「コズイレフ外相とクナーゼ外務次官が3月に訪日した際、渡辺美智雄外相に領土で秘密提案を行った。歯舞・色丹返還と国後・択捉の帰属協議を別個に行うというものだ」との情報をモスクワで聞いたことがある。

 ニュースソースは民間の情報通なので、ロシア外務省と日本大使館の幹部に当てたところ、ともに「そんな話は聞いたこともないし、あり得ない」という反応だった。最高機密だったので、一握りの高官しか知らなかったようだ。

 やがて大統領府と議会の権力闘争が激化し、そちらの取材に没頭するようになった。当時、ロシア公文書館で機密文書が公開されるようになり、筆者はその調査にも集中した。秘密提案の情報は時事通信の霞クラブに丸投げしたが、東京でもつかめなかったらしい。

 コズイレフ外相と日本通のクナーゼ外務次官が渡辺外相とのさしの会談で非公式提案をしたことはその後も噂には上ったが、最初に報道したのは、2000年ごろの朝日新聞だった。

 歯舞・色丹の引き渡し協議、国後・択捉の帰属協議を同時並行で進め、決着後に平和条約を締結するというクナーゼ提案は、学者時代からの持論に沿うもので、「非公式」とはいえ、ソ連・ロシア側が過去75年間で提示した最も妥協的な解決案だった。しかし、日本側は一部の外務省幹部だけで検討し、「4島返還ではない」として拒否した。対案を出して本格交渉に入ろうともしなかった。

 

◆モスクワでクナーゼ氏を取材

 

 03年から2度目のモスクワ勤務をした際、外務省を辞めたクナーゼ氏と秘密提案について話す機会があった。クナーゼ氏は「56年宣言で約束した歯舞、色丹はともかく、国後、択捉を交渉なしに引き渡すことはできない。あれがぎりぎりのロシアの譲歩だった」「その後、渡辺外相が訪露した際、空港から車に同乗し、『これを拒否すると、交渉は後退する』『私のクビも危くなる』と説得したが、渡辺外相は『4島の日本帰属を確認するなら、実際の返還は柔軟に対応する』と答えるだけだった」と話していた。

 日本側から無視され、ロシアの保守派から国賊呼ばわりされたクナーゼ氏は次第に孤立無援となった。事実上失脚するが、あれほど勇気を持って日露交渉に尽力したのに気の毒だった。

 

◆4島固執で敗北した日本外交

 

 筆者は昨年、『北方領土はなぜ還ってこないのか』(海竜社)という本を出版する際、当時の日本外務省関係者らに取材したが、ある幹部は「あと一歩で4島に手が届くと考え、舞い上がっていた。経験則から、最高首脳が決断すれば動くと思っていた。国会で何十回も4島返還要求決議が採択されており、官僚がそれを覆すことはできない。ロシアの内政悪化が誤算だった」と話していた。しかし、外交は結果が全てであり、今日の2島も返さないロシアの出方をみれば、日本の対露外交は結果的に大失敗だった。

 クナーゼ提案に沿って本格協議を行っていれば、歯舞、色丹は間違いなく日本領となる。プーチン政権のように「2島の主権をどうするか規定がない」といったクレームもなかった。国後、択捉については、双方の主張が対立し、なかなかまとまらないだろうが、双方の信頼感や真摯な共同作業があれば、島を分割する妥協的な解決策が生まれたかもしれない。つまり、日本が国後、ロシアが択捉を確保するという「3島返還」である。

 通常なら、提案を拒否する場合でも対案を示し、妥協点を探るものだが、日本外務省はそれもしなかった。官邸にも事後報告だったらしい。

 あの当時、筆者も含め、ロシアの専門家や学者、記者らは、時代を絶好のチャンスとみなし、対露外交で果敢に攻めるべきだという論調を展開しなかった。その後のロシアが、プーチン体制のような保守志向に逆戻りすることを誰も予測できなかった。

 その中で、中国専門家の中嶋嶺雄元国際教養大学学長はゴルバチョフ時代から、「歴史的好機が到来した」とし、日本も妥協しながら早急に領土問題を解決し、来るグローバル時代に備えるべきだと主張していた。しかし、「56年宣言に沿ってまず2島を獲得し、残る2島は主権を要求しながら共同開発や買い取り等の道を探る」という中嶋氏の主張は外務省高官から「敗北主義」「2島返還論」と国賊呼ばわりされた。当時の外務省の尺度では、安倍首相も「国賊」となってしまった。

 あるロシア専門の学者は筆者に対し、「自分も中嶋さんの意見に同感だったが、中嶋さんが外務省などから攻撃されるのを見て怖くて書けなかった」と回顧していた。それでは、何のためのロシア研究なのかが問われてしまう。

 記者を辞めて10年近くたつが、今でも92年の怒濤の時代に「クナーゼ提案」を、誤報を恐れず記事にしておくべきだったと思うことがある。報道しておけば、外務省の情報独占を阻止し、世論に訴えて交渉を後押しできたかもしれないという思いが、悔恨とともによみがえってくる。

 

なごし・けんろう

1953年岡山県生まれ 76年時事通信社入社 バンコク モスクワ ワシントン 2度目のモスクワ各支局 外信部長 仙台支社長などを経て 2011年退社 現在 拓殖大学海外事情研究所教授

 

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