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竹下派の誕生と分裂のドラマ/七奉行が「命がけの権力闘争」(長田 達治)2020年9月

 1985年2月から95年3月までの10年間、政治部で取材した。主に首相官邸記者クラブ、野党クラブ、平河クラブで中曽根政権後半から宮沢政権末期までの政党、国会を担当。自民党田中・竹下派の取材が長かったが、その中では「竹下派七奉行」と言われた雑草のようなエネルギーにあふれた政治家たちの生き方が強く印象に残っている。

 ロッキード一審有罪の田中角栄元首相が「闇将軍」として中曽根政権を支えていた85年2月7日に、竹下登蔵相主宰の「創政会」が発足した。元首相は実権が竹下氏に奪われるのではという不安からか連日痛飲し、2月27日に自宅で倒れた。87年7月に田中派を割って竹下派が結成され、田中派は分裂した。その5年後の92年8月、竹下派会長の金丸信自民党副総裁が佐川急便からの5億円献金を認めて辞任、10月14日には衆院議員辞職を表明して派閥会長を辞任。し烈な後継争いの結果、28日に小渕恵三氏が会長に選ばれると羽田孜・小沢一郎両氏のグループが事実上分裂、12月10日に羽田・小沢グループが竹下派を飛び出し、新派閥を結成したことで竹下派は分裂した。

 分裂前後の派閥を覆っていたのは田中派分裂時には感じられなかった近親憎悪の重い空気だった。93年6月に野党が出した宮沢内閣不信任決議案に羽田・小沢派が同調。決議案は可決され、自民党が分裂。衆院解散・総選挙の結果、小沢氏が主導して非自民8党会派連立の細川護熙政権ができたのはご存じの通りだ。

 

◆竹下派結成、中心は元首相親衛隊

 

  創政会は「他派の首相を支えるだけの最大派閥」という構図に耐え切れなくなった金丸、小沢、梶山静六、羽田孜氏らが竹下登氏を独自候補として擁立するために作った。小沢、羽田、梶山各氏は田中幹事長時代の69年衆院初当選組。元首相を「おやじ」と慕い、「竹下にやらせるのは、おやじのためだ」と複雑な胸の内を見せていた。

 当時の田中派(木曜クラブ)は自民党副総裁の二階堂進会長を中心に元防衛庁長官の山下元利氏や外様の田村元、小坂徳三郎、江崎真澄氏ら重鎮ぞろい。竹下・金丸両氏が本格的に台頭するのは金丸幹事長が86年の衆参同日選で自民党を圧勝させた後である。

 総裁選の年、87年の元旦、当時幹事長だった竹下氏は、東京・目白の田中邸に挨拶に訪れたが、門前払いされた。私も目白訪問をキャッチし、他社の記者数人と目白で待ち受けたが、あっという間の出来事だった。その後、門から出てきた山下元利氏は「二階堂、小沢辰男、江崎真澄氏らと一緒に田中元首相に会ったのだが、本当に門前払いしたのかい? 真紀子(娘)の考えかなぁ」と首を傾げた。

 

◆「竹下氏はダメ」と田中氏

 

  その後、後藤田正晴氏に聞くと「門前払いは真紀子じゃない。田中さんの考えだ。田中さんが元気なら俺が目白に行って説得したんだが、ああいう病気になったから仕方ない。『竹下はダメ』というのが田中さんの考えだ。ロッキード事件以来、2人の間にはいろいろあるのだよ」と意味深な言葉が返ってきた。

 梶山、小沢氏らは総裁選で安倍晋太郎、宮沢喜一両氏を引き離して勝利するためにも竹下派の人数確保を優先、非創政会取り込みに躍起となった。

 当時の取材メモを見ると、愛野興一郎氏(98年死去)が「今の局面では田村元氏に私たち中間派の親分として合流の大義名分を作ってもらわないと選挙区で竹下派入りを説明できない。愛知和男さんも戸井田三郎さんもそう言っている。竹下さんが木曜クラブを出て新派閥を結成すればせいぜい80人、木曜クラブの中でやれば脱落組は小坂徳三郎、保岡興治、田中直紀、山下元利くらいで120人は集まる」と語っていた。奥田敬和氏も多くの後発組を合流させた。87年7月の竹下派旗揚げには衆参両院議員113人が集合、田中派は15年2カ月の歴史の幕を閉じた。

 二階堂副総裁の総裁選立候補表明などの波乱はあったが、87年10月20日未明の中曽根裁定で竹下氏が自民党総裁に決定した。後藤田氏は「あの当時の力関係は目白の方が上だよ。田中元首相が病気で倒れなかったら竹下氏はつぶされていたね。竹さんは運がいい」と話していた。元首相の怖さを骨身に染みて知っていた竹下氏が怯えたのもやむを得ないことだったのだろう。

 

◆小沢一郎氏の入院、政局の節目に

 

  竹下政権は消費税導入の税制改革をやり遂げたが、リクルート事件でボロボロになって総辞職した。固い団結を誇った竹下派の求心力は失われた。竹下氏が後継に宇野宗佑首相を選んだ時、金丸氏は「相談がなかった」と怒った。宇野首相がわずか69日で総辞職すると、今度は金丸氏主導で海部俊樹氏を後継に選び、小沢一郎氏を幹事長に据えた。宇野政権で橋本龍太郎氏が幹事長になったとはいえ、派閥には小沢氏より当選年次の多い小渕恵三氏もおり、大抜擢人事だった。小沢幹事長は国会運営、総選挙勝利と順風満帆だったが、91年4月の都知事選で敗北して辞任、竹下派会長代行に就任したが、過労がたたったのか6月29日に心臓発作で入院した。後に振り返ると、これが政局の大きな節目だった。

 小沢氏の盟友、奥田敬和氏は高輪議員宿舎住まい。囲碁の腕前が初段程度と私とほぼ互角なので、夜回り後、他社の記者を帰してからよく囲碁を打って遊んだが、「見舞いに行った時、いっちゃん(小沢氏)は『こんなになっちゃってさあ』って笑って言うんだが、体中に管やパイプがついているんだよ。可哀そうでなあ。ありゃ、大変だよ」とポツリと言った。

 小沢氏の退院後、国会裏のビルにある小沢氏の個人事務所に会いに行こうとしても秘書に断られるようになった。梶山氏も会えない。都立小石川高校の小沢氏の先輩、村岡兼造氏も会えない。気心の知れたベテラン記者も軒並みだめ。小沢氏の隠密活動が病気後始まった。

 

◆後継選びで、小沢、梶山両氏が対立

 

 92年8月の金丸氏の副総裁辞任、10月の議員辞職、竹下派会長辞任に至る検察との「戦い方」を巡って小沢氏と梶山氏が対立した。「梶さん」「いっちゃん」と双子のようにいつも一緒にいた小沢、梶山両氏の関係が修復不能にまで悪化した。後継派閥会長は即、総裁候補となる。金丸氏の意中は小沢氏だが、竹下氏の意中は小渕氏。小沢氏は一歩引いて羽田氏を立てた。国会では政治改革法案が審議中で、衆院に小選挙区比例代表並立制を入れようとする小沢・羽田派と消極的な竹下・小渕陣営という図式だった。

 小沢・羽田氏らの主張は伊東正義党政治改革推進本部長や後藤田正晴本部長代理、そして経済界・マスメディアなどでつくる民間政治臨調の主張に近く、「錦の御旗」は羽田・小沢陣営にあるように見えた。

 小沢氏の衆院若手議員囲い込みによる多数派工作が奏功したと思われたが、最後の最後で、参院竹下派を丸ごと味方につけた竹下氏が小渕派に勝利をもたらし、遺恨は決定的となった。「錦の御旗」を手に連立政権樹立までを難なくやってのけた小沢氏の胆力と説得力には恐れ入った。一方の梶山氏も10兆円国債発行などの金融危機克服策を手に小渕派を飛び出し、超党派の支援を受けて71歳で自民党総裁選に出馬、最後まで華麗な政治活動を見せつけた。

 小渕恵三、橋本龍太郎、羽田孜、梶山静六、奥田敬和、渡部恒三の6氏が亡くなった。永田町で活躍している竹下派七奉行は小沢一郎氏だけとなった。七奉行には派閥の顔になる人物と縁の下の力持ちをする人物が混在した。首相になった3人を除けば、後世の政治史に名前が残らない人物もいるだろうが、時代の転換点には雑草のような「戦国の武士」が必要だと思う。竹下派分裂は政界再編時代の幕開けとなったが、日本が豊かさを維持して生き残るためには国政のさらなる大転換が必至。その時には新たな「七奉行」が出てくるのではないか。

 

おさだ・たつじ

早稲田大学法学部卒 1973年毎日新聞社入社 宇都宮支局 西部本社整理部 整理本部 政治部副部長 外信部編集委員 ソウル支局長 編集総センター副部長 学生新聞編集部長兼小学生新聞編集長 紙面審査委員会委員などを経て 一般社団法人アジア調査会出向 2009年毎日新聞社を退社後 アジア調査会専務理事 現在は一般社団法人日本外交協会常務理事

 

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