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ベトナム「枯れ葉作戦」の記憶/テレビが捉えた「沈黙」と「覚悟」(茅野 臣平)2020年7月

 サイゴン陥落から45年、いつまでたっても記憶の底から立ち上がってくる場面がある。

 1981年8月、ベトナムはハノイのベトナム東独友好病院の病室で、私は報道番組「いま世界は」のキャスター轡田隆史氏を見やりながらテレビカメラの横に立っていた。

 

◆ベトちゃん、ドクちゃんを初めて紹介

 

 広めのベッドには幼児が2人、頭を交互にして1人は活発に手足を動かし、もう1人は眠っているようだった。医師がゆっくり幼児にかけられた白い布を取った。現れたのは胴体が一つにつながった二重体児である。息をのむ。誰も言葉を発しない。轡田氏も沈黙したままだ。状況説明も解説も感想も一言もない。

 テレビは映像と音声と時間が絡み合い表現する手段だが、ここでは沈黙が全てをのみ込んだ。「沈黙」の映像が目の前の存在の重さを深く静かに捉えていた。2人の映像が日本で初めて放送され反響は海外にも広がった。

 常に練った言葉で綴り語る轡田氏(当時朝日新聞編集委員)が後に著書『ベトナム枯れ葉作戦の傷跡』で「人間の尊厳を冒瀆することを恐れずに表現するなら、超現実的としか言いようのない姿がそこに横たわっていたのである。二重体児なのだ。笑っている赤ちゃんと眠っている赤ちゃんは一つの胴体を共有しているのだ。(中略)足は一組しかない。しかも(中略)いやもうやめよう。赤ちゃんの体のことをあれこれ描写するのは…」と言葉を閉じた。

 幼児の名はバーとボン。ベトナムでは3と4を指す(後に入院先の病院名にちなみベトとドクに改名)。

 彼らは6カ月前、中部ザライ・コントムで農家の男子として生まれた。この地域はベトナム戦争で米軍が61年から10年以上続けた「枯れ葉作戦」の主戦場でもあった。毒薬ダイオキシンを含む枯れ葉剤は南ベトナムの密林や穀倉地帯の20%に10万㌧以上が散布された。目的は密林に潜む解放戦線兵士らを攻撃し、田畑の農作物を除草剤として枯らし飢餓状態にすることだった。母親が枯れ葉剤を浴びたのもこの地であった。

 

◆「枯れ葉剤」と異常出産多発の関係

 

 取材はこの二重体児を起点にハノイから南下、かつて解放戦線兵士が兵器や物資を運んだホーチミンルートをラオス国境沿いにたどり、ホーチミン市のベトナム最大の産婦人科ツズー病院ではホルマリン液に沈む無脳症、無眼球、一つの頭に二つの顔など描写するのが難しい20数体の死産、流産した胎児を見た。言うまでもなく全ては枯れ葉剤を浴びた母や父から生まれた子どもだ。

 南ベトナムでの民間人の戦争犠牲者は158万1000人と言われる。だがそこには死んだ胎児の数は含まれていない。

 取材中、子どもたちの異常障害は枯れ葉剤が原因だろうか、との疑問を持った。答えを求め、農薬工場が爆発し大量のダイオキシンがまき散らされた北イタリア・セベソの事故現場を取材、現場周辺で流産や奇形児が事故の翌年から倍増している実態をつかんだ。83年ホーチミン市で開かれた東西の科学者100人余りによるシンポジウムでは、枯れ葉剤による人間と自然に対する深刻な影響が報告された。日本の科学者も早くからダイオキシンの恐怖を指摘していた。

 それはベトナムの「枯れ葉作戦」がいまだ止まぬ化学兵器の史上最大最長の戦争であったことを意味した。

 この時点で番組は枯れ葉剤と「思われる」という表現を「である」に切り替えた。

 「枯れ葉作戦」の痕跡を追うほどに、私は戦争の不条理さ凄惨さにたじろいでいった。そんなとき一瞬の生命の煌めきを南部デルタで見た。漆黒のメコン川支流を船首に1本の線香の灯りだけで木船が行き交う。空に満天の星。森はマングローブだろうか岸辺の1本の木が群生する蛍の光の点滅で呼吸し、船べりから水面に手を入れると夜光虫がからみつく。自然だけが発する闇の中の青である。いつまでもこの闇の中に浸っていたいと思った。だがこの地は一歩密林に踏み入れば、木々は風にそよぐ葉音もなく白く立ち枯れ、鳥の鳴き声も虫の姿もない。森が壊れ自然が沈黙している。テレビが映し出した「沈黙」はここでも言葉を遮断し、ただならぬ場面を見せていた。

 私の「枯れ葉作戦」の取材はこれで終点のはずであった。が…。

 86年6月、私は雨期のスコールが激しく路上をたたくホーチミン市の病院で2人の子どもを運ぶ救急車の到着を待っていた。二重体児ベトとドクである。彼らを取材してからすでに5年が経っていた。それは5月末「ベトとドクが死にそうだ」とベトナムからの突然の連絡で始まった。

 ホーチミン市最大のチョーライ病院、夜でも気温30度、80%の湿度、クーラーが1基勇ましい音を立てるが冷気は送り込まれてこない。医師と看護師の表情が急に険しくなった。動きが慌ただしく、交わす言葉も短く鋭い。麻酔医がゴムボール状の人工呼吸器をベトの口に当て、力まかせに絞り込んで酸素を吸入する。ベトの頬がそのたびにブクブクと膨らむ。呼吸が止まったのだ。人工呼吸、点滴、注射、麻酔医がフッと息を抜くしぐさをした。目の前で死にかかった命がよみがえった。診断はベトの脳炎。

 

◆女医たちが治療に重要な役割

 

 ベトの命が危機に瀕するたびに登場するのが30代の麻酔医バン女医である。ベトの命が絶望視されたとき、彼女はベトとドクの分離手術の準備を始めた。注射器や薬の点検を手早く進めるが表情は冴えない。「麻酔をしても解除する薬も機器も足りない」というのがその理由であった。

 この夜、ホーチミン市の各病院から分離手術のために内科、外科などの専門医が集まり治療方針の討議が深夜まで続いた。部屋の片隅には2人の女医が座っていた。50代だろうか、たたずまいは静かである。黒い普段着、顔は日焼けし足元はゴムのサンダル。会議が終わった頃2人はベトとドクの病室に入り、昏睡状態のベトの目を何度ものぞき込んだ。脳死状態になっていないかを判定していたのだ。もし脳死となれば分離手術がただちに強行される手はずであった。この時ベトの右目の瞳孔はすでに開きっぱなしだったが、左目はわずかに反応があり、命はとりとめた。気が付いたとき、2人の姿は深夜の街へ消えたあとだった。

 ベトナム戦争を連想した。恐らく解放戦線のゲリラはこんな風に自然体で現れ、ごくあっさりと一仕事をしたあと、跡形もなく何処かへと去っていったのだろうと。

 同じ6月、ベトとドクを日本で治療するのに重要な役割を果たしたのが40代の主治医フォン女医である。治療方針をめぐってベトナム国内の議論が沸騰した。あくまで自国で、いやフランスでと主張する声、それを抑え込んだのがフォン女医である。後に2人が入院した日赤医療センターで「もし日本への移送中ベトとドクに重大な異変が起きたら私は全てを失っただろう」としみじみと語った。またベトナムはなぜ女性の医師、看護師が圧倒的に多いのかと聞くと「男性はみんな戦場に行った」とフォン女医が強いまなざしで返した。

 枯れ葉剤を浴び過酷な「命」を背負わされた母親たち、それに真正面で向き合い毅然と「生」へつなげる女性医師たち、その静かな「覚悟」をテレビは映し出せただろうか。

 

◆日赤で治療、分離手術はベトナムで

 

 その後、ベトとドクは―。

 脳炎発症のベトを救うため、日赤の医療チームが特別機でホーチミン市に到着。治療の結果、ベトの容態は安定した。だが医療体制に不安があるベトナムの強い要請で、2人は日本へ移送され日赤に入院することになる。6月の1週間の出来事であった。

 2人を受け入れた日赤は分離手術の準備を全て整えた。しかし、手術実施には日本独自の生命倫理が一つの大きな壁となり、結局、日赤で分離手術は行わず、ベトとドクは10月ベトナムへと帰国した。そして88年10月、2人の分離手術はベトナムの医師らの手で行われ成功した。

 脳炎の後遺症と闘ったベトは2007年に亡くなった。ドクは結婚し家族とホーチミン市で暮らすと聞く。

 

ちの・しんぺい

1968年朝日テレビニュース入社 78年テレビ朝日へ 社会部 政治経済部 報道制作部 「ザ・スクープ」「21世紀への伝言」等プロデューサー 2000年長野朝日放送 12年退社 

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