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田中六助幹事長の晩年を取材/自民党本部放火で流れた極秘会談(今西 光男)2020年5月

 1984(昭和59)年9月19日夕、自民党本部4階の平河(自民党)クラブに戻り、「果報は寝て待てさ」とひそかに思いながら、クラブ北側の壁に並ぶソファのひとつに倒れ込んだ。うつらうつら聞いていたNHK午後7時のニュースも大したものはなく、隣のソファからも寝息が聞こえ、すっかり寝に入った。しばらくして、「ドーン」と鈍い音、「火事だ」の声で顔を上げると、クラブ北側のガラス窓が真っ赤になり、隙間から煙が漏れてきた。ほぼ同時にあちこちから「逃げろ」の声。朝日のボックスに置いていた肩掛け鞄をつかむと、一目散で階段を駆け下り、正面玄関から飛び出した。

 〈1984年9月19日午後7時35分ごろ、東京都千代田区永田町の自由民主党本部(9階建て)の3、5階から出火、3~7階の延べ600平方㍍が焼けた。隣接した料理店に駐車したトラックに仕掛けられた火炎放射装置で放火されたもの。被害額は9億円。犯人とみられる男6人は逃走、都内の新聞社に極左(中核派)を名乗る男から犯行声明があった〉(『朝日年鑑1985年版』)

 当時、私は朝日新聞政治部の田中六助自民党幹事長番だった。中曽根康弘首相の総裁任期は11月24日まで。再選が有力視されていたが、河本敏夫氏(河本派)、宮沢喜一氏(鈴木派)、安倍晋太郎氏(福田派)の3氏が総裁選出馬の意欲を見せていた。しかし、カギを握るのは、刑事被告人ながら、最大派閥田中派を率いる田中角栄元首相の動向。幹事長はその田中元首相と中曽根首相との仲介役として、政局を切りまわしてきた。ところが、8月の夏休みが終わったのに党本部にも姿を現さなかった。持病の糖尿病が悪化。のちに8月末から東京女子医大病院に入院していたことがわかった。担当していた六さんの不在で、私は前回の総裁選で安倍陣営を担当したこともあり、福田派をもっぱら取材していた。

 

◆入院先から六さんが現場に

 

 消防車や警察車両、さらにはテレビ中継車などが殺到、ごった返す中、自民党本部駐車場に1台の乗用車がサイレンを鳴らして割って入ってきた。降り立ったのは田中幹事長。長身の月岡泰志秘書に抱きかかえられるようにして立つと、たちまち報道陣が取り囲んだ。幹事長はマイクを突きつけられるがすぐには声が出ない。声は出てもか細く聞こえない。それどころか、ずるずると身体が沈み込んでしまう。月岡氏が必死で支えているのに気づき、私もベルトをつかんで持ち上げた。それでも身体は沈み込み、ズシリと重い。気がつくと、六助番仲間の鈴木美勝(時事)、芹川洋一(日経)、浅海保(読売)の各記者も、六さんのベルトを持ったり、脇の下に手を入れたりして、ひそかに支えていた。顔面蒼白の六さんが声を振りしぼって話し出したころ、正面玄関から怒声が沸き起こった。10月の総裁選に向けた選挙人名簿などの重要書類を運び出すため「奮闘」していた浜田幸一衆院議員に対し、駆け付けた住栄作法相(鈴木派)が「マッチポンプ(自分で起こした騒ぎを自分で片付ける)みたいな真似しやがって」とつぶやき、これを聞きとがめた浜田氏が法相を殴り飛ばしたらしい。カメラが一斉にこの騒ぎに集中。その隙に、私たちは幹事長を車に押し込んだ。番記者一同で病院に戻る幹事長車を見送った。これが、六さんが公の前に姿を見せた最後になった。

 自民党総裁選任期満了まで2カ月弱。田中派が元首相の意向を受けて、「中曽根支持」を打ち出すと、安倍氏も宮沢氏も「今は力を蓄える時」と「中曽根再選容認」に傾いた。田中幹事長の筋書き通りの展開だった。むしろ、幹事長が心配していたのは首相・衆参議長経験者ら長老たちの動きだった。実際このころ、鈴木善幸前首相が中心となり、福田赳夫元首相が同調、竹入義勝公明党委員長、佐々木良作民社党委員長ら野党も巻き込んでの「二階堂進副総裁の擁立工作」が水面下で進んでいた。

 

◆加速する「二階堂擁立」の動き

 

 報道カメラの前では何とか取り繕ったものの、六さんの体調がとても政変に耐えられるものではないことは、その場にいた誰もがわかってしまった。鈴木前首相らは「六助不在」を確信し、一気に「二階堂擁立工作」を加速させた。放火事件2日後の9月21日には、鈴木前首相から話を聞いた公明党の竹入委員長が矢野絢也書記長に伝え、党を挙げて推進することを申し合わせた。オーストラリアへの小旅行を終えて9月26日に帰国した鈴木前首相はただちに福田、二階堂両氏、さらに28日には矢野氏と赤坂のウナギ屋「重箱」で会った。

 

◆国労委員長と自民幹部の幻の密会

 

 「あの特ダネはどうなったのか」。幹事長車を送り出すと、仮眠の前に仕込んでいた「果報」を思い出し、さっそく確認の電話を入れた。「残念ながら、流会になった。顔をそろえたとたんに火事の一報が入り、金丸さん、安倍さんも相次いで呼び出され、お開きになった」。実は、この日の晩、自民党本部と車で数分の赤坂、料亭「さくま」で極秘の会合がセットされていた。「さくま」はスッポン料理の名店で、赤坂の花街から離れた奥まったところにある。ここで、金丸信自民党総務会長(田中派)、安倍晋太郎外相と、国労(国鉄労働組合)の武藤久委員長、山崎俊一企画部長との初めての会合が予定されていた。金丸氏と昵懇の田辺誠社会党書記長、そして国労出身で総評事務局長だった富塚三夫氏を差し置いて、直接、国労委員長が金丸氏、安倍氏に面談するというものだった。武藤氏は、藤尾正行政調会長(福田派)の労相時代に懇意になり、金丸、安倍両氏への仲介を頼んだ。「二人と直接、話をしたらいい」と藤尾氏が段取りした。

 委員長が直接、政界工作に乗り出さねばならないほど、国労は追い込まれていた。中曽根首相が設置した「国鉄再建監理委員会」(亀井正夫委員長)は、放火事件約1カ月前の8月10日に、第2次緊急提言として「分割・民営化の方向」を正式に表明した。国鉄内部でも自民党内でも「分割・民営化」派が大勢になりつつあった。

 国労は田中元首相については手づるがあった。国労本部執行委員の細井宗一氏が元首相の兵役時代の上官であり、元首相は世話になった細井氏を慕い、これまでも何かと便宜を図ってくれた、という。だが、その元首相本人が厳しい状況にある。しかも、国鉄問題では三塚博氏ら福田派の影響力が強い。幹事長不在のなか、党執行部を握る実力者の金丸氏と福田派の安倍氏には、どうしても国労の立場を理解してもらう必要があった。政府自民党の「分割・民営化」の動きにくさびを打ち込みたい。敢えて飛び込んだ賭けだった。しかし、それが放火事件で失敗に終わった。

 

◆病室で渡された「遺言」

 

 一方、「二階堂擁立工作」は10月27日の自民党実力者会議で、表面化した。鈴木前首相ら長老たちは「中曽根退陣、二階堂総裁」を激しく迫ったが、金丸総務会長が率いる党執行部は「中曽根再選」で党内をまとめた。金丸氏は、「不在」の六さんの後釜に座り、中曽根首相の「分割・民営化」路線を推進していく。引き続き外相を任された安倍氏も側近の三塚氏が激しい国労批判を展開しても、一切、口を挟まなかった。

 放火事件での「駆け付け」が死期を早めたかもしれない。田中六助氏は翌85年1月31日、62歳で死去した。その少し前、東京女子医大病院で、六さんと面会した。外光を遮断した薄暗い病室で、ただ手を握り返すのみ。田中元首相に離党を進言した巻紙の「親書」のコピーが月岡秘書から「遺言だ」といって渡された。

 

いまにし・みつお

1948年生まれ 71年朝日新聞社入社 大津 京都支局 大阪社会部 東京政治部次長 総合研究本部(現 ジャーナリスト学校)主任研究員などを経て 2008年退職 現在「メディアウオッチ100」代表

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