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「ブッシュ大統領、倒れる」を目撃/宮澤首相、瞬時に冷静な判断(原野 城治)2020年3月

 宮澤喜一元首相が2007年に亡くなって約13年が経過するが、1973年10月に東京で旗揚げ総会をした「日米欧委員会」(当時名称)に強い関心を抱き、その主要メンバーである宮澤氏を旧衆院第一議員会館437号室に訪ねたのが初めての取材だった。その時、英字新聞を手にソファから小首をかしげて私をのぞき込んだ姿を今でも忘れない。政治部2年目の若造記者の訪問にニッと笑みを浮かべたその表情は、当時「ニューライトの旗手」と呼ばれたクールなイメージとはまったく別の印象を与えたからだ。

 以来、鈴木善幸内閣の官房長官時代に丸々「長官番記者」だったのをはじめ、亡くなる直前まで30数年にわたり様々な話を伺ったが、忘れられない取材のひとつに首相時代のジョージ・ブッシュ米大統領の官邸ディナー(夕食会)での出来事がある。

 

◆官邸クラブ代表で夕食会参加

 

 ブッシュ大統領は1992年1月7日から10日まで韓国訪問後に来日した。日米貿易摩擦解消が首脳会談の大きなテーマだったが、実は両首脳はその時が〝初対面〟であった。8日夜には、首相官邸(旧)の大食堂で歓迎のディナーが催され、私も官邸記者クラブの代表としてジャパンタイムズの記者とともに招待され臨席した。挨拶を受ける拝謁の列に並ぶ応接広間で、やがて宮澤政権の副総裁となる自民党実力者・金丸信氏が、北朝鮮訪問(1990年9月)について「金日成との会談はサシで日本語だった」などと話す大きな声に、私は聞き耳を立てていた。

 ところが、挨拶を待つ来賓の列がなかなか動かない。ブッシュ大統領が二度も屏風の陰に姿を消したためだった。その時、大統領がディナーの途中で隣の宮澤首相の膝の上に嘔吐し、椅子から崩れ落ちるとは想像もしなかった。しかも驚いたのは、大統領の容態が急変した途端に、6、7人の大柄な米人ガード(警護)が猛然とホール内に飛び込んで来たことだった。次の瞬間、ガラス張りのドアの内側に大きな幕を広げ外部からの視線を遮断すると同時に担架が猛スピードで運び込まれた。ガードは主賓席のテーブルの上に登り仁王立ちになった。

 

◆大統領夫人の素晴らしき機転

 

 ブッシュ大統領の異変に気付くと大食堂内は沈黙に包まれ、その後騒然となった。ガードの突入はその時だった。私は立ち上がって主賓席をのぞき込んだ次の瞬間から、小さなメニュー・カードに時間と経緯をメモし始めた。大食堂には楽団用のバルコニーがあり、そこに取材用のテレビカメラが設置されていた。宴会中は撮影しない取材ルールであったので、目撃している記者は招待の二人しかいないはずだった。しかし、実際はNHKのモニター画面に大統領の異変が映し出され、大食堂の外に待機していた記者に状況が知れ渡った。私はそんな事情を知らないまま経緯をメモし続けた。余談だが、騒ぎの最中に外務省の北米一課長が私のところに来てメモを見ると、素早く書き写して慌ただしく自席へ戻って行った。

 会場ではやがて場を取り繕うように、スコウクロフト大統領補佐官が大統領の挨拶文を代読したが、大統領のバーバラ夫人が急に立ち上がって、「私はここにいます。私が席を立つと、世界に悪いサインを送ることになるのでここにいます」と挨拶すると会場からは大きな拍手が起きた。そして、「皇太子さまと午後に、テニスを一緒にやったのが良くなかったのかもしれません。ここにいるアマコスト大使(駐日米大使)も一緒でした。ブッシュ家の家訓ではテニスに負けるわけにはいかないのです」と続け、大食堂には安堵と大きな笑いが起きた。私は、ぽっちゃりとした夫人の素晴らしい機転に感服した。

 その後、私は2012年5月にアマコスト元大使が来日した際に日米関係について単独インタビューの機会を得た。その時、「ブッシュ・ディナー」の写真を見せると、元大使は「思い出したくないね。相当なプレッシャーだったよ」と渋い表情を見せた。当時、日本に対する〝ミスター外圧〟と言われた元大使だったが、大統領の異変にどれほど肝を冷やしたのかと想像できた。そして、「いまテニスはあまりしないね」とはにかむように付け加えた時、バーバラ夫人の「テニスの釈明」が厳しい局面に立たされた大使に絶妙な助け舟を出したのだと思った。

 

◆米警護人に「机の上に立て!」

 

 当の宮澤元首相に事後談を聞いたのは2003年10月に衆院議員を引退された直後、東京・麹町の事務所で長く話し込んだ時だった。

 私が「詳細なメモを取っていたのに警護のために大食堂に長く閉じ込められて、残念ながら外に出た時にはテレビモニターの映像で報道の大半は終わっていました」と説明した。すると、宮澤元首相は「あの時、駆け込んできた米国のガードに『テーブルの上に立っていろ』と即座に指示したんですよ」と言われた。バルコニーのテレビカメラの存在を知っていた宮澤首相は、ブッシュ大統領のぶざまな姿を衆人、それこそ世界に見せるわけにはいかないと、ガードを机の上に登らせテレビカメラから遮断させたのだった。私は、その瞬時の判断に冷静すぎるものを感じた。

 しかし、私が心の中で唸ったのは、その後に宮澤元首相が言われた「夕食会の席で思ったことは、大統領の(核兵器発射の)ボタンはどうなるかということでした」という言葉だった。戦後の日本にとって様々な葛藤があった核拡散防止条約(NPT)を批准したのは、宮澤外相時代の1976年6月であった。当時自民党内には、中曽根康弘元首相らを中心とした「核フリーハンド論」の潮流があり、日本が条約に署名してからすでに6年が経過していた。そんな中、宮澤外相は「批准に賛成なのは、日本に核兵器を持つ力がないからである」と主張し、「核兵器はこれを使わずに管理していくことで、はじめて抑止力の効果を持つ。日本にはこの管理能力がない」と明言した。ディナーでの突然の騒ぎの中で、核ボタンの管理を即座に考えた、その峻厳さに私は唸った。

 

◆金丸副総裁誕生の裏技

 

 夕食会の出来事には、さらなるエピソードがあった。それを知ったのは、御厨貴、中村隆英両氏の編による『聞き書 宮澤喜一回顧録』(岩波書店)によってであった。それによれば、金丸氏が〝土下座外交〟と批判された北朝鮮訪問のあと、「自分は何となく反米と思われている。非常に遺憾だ」との話を宮澤首相が耳にしたことだった。『回顧録』を援用すれば、宮澤首相は事前にブッシュ大統領に「ちょっと手伝ってくれよ。この人(金丸氏)の協力が自民党内で必要なんだ」と説明し、「ディナーに来る。僕はその時サインを出すからひと言声をかけてくれよ」と依頼したという。すると、ブッシュ大統領は「いいよ、そういうことは得意とするところだ」と快諾した。

 私は、夕食会の拝謁の列で宮澤、ブッシュ両首脳と金丸氏があいさつし歓談しているのを確かに目撃した。参会者のほとんどが注目する景色だったからだ。歓談の中身は知りようもなかったが、『回顧録』によるとブッシュ大統領は「あなたのことはよくミヤザワから聞いている、ひとつ助けてやってくれよ」と言ってくれたという。永田町で金丸氏の〝宮澤嫌い〟は有名だったが宮澤首相は「それがあって、金丸さんには自民党の副総裁になってもらいました」と内幕を明らかにした。

 戦後の日米関係史の明暗を知り尽くした宮澤首相にしてみれば、騒然としたあの夜の「ディナー」はほんの一瞬の変事だったのかもしれない。しかし、その凝縮された時間の中に政治や外交の機微に関わる様々な思惑と駆け引きがあったことに、私はいまさらながらに〝現場〟の凄みを感じている。

 

はらの・じょうじ

1948年生まれ 72年時事通信社入社 政治部 パリ特派員 秘書部長 編集局次長兼解説委員などを経て 2003年(株)ジャパンエコー社代表取締役に 12年一般財団法人ニッポンドットコム理事長 17年からジャパンエコー社代表取締役 「AIニューズ」編集長など (公財)日本国際問題研究所評議員 (公財)統計情報研究開発センター評議員 著書に『日本の発言力と対外発信』

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