ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


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記者人生を変えた天安門事件(岩田 公雄)2019年10月

 今年7月、BS11のスタジオから香港に電話を入れた。相手は「民主化の女神」とも呼ばれる周庭(アグネス・チョウ)さん。逃亡犯引き渡し条例改正案に反対するデモ隊の一部が立法会に突入した直後だった。          

 周さんは、「過激とか、暴徒とか決めつけないでください。私たちは絶望と闘っているのです」と流ちょうな日本語で必死に訴えた。

 香港市民のデモ拡大の動きに中国政府は、深?に集結させた武装警察のデモ鎮圧訓練の様子を勇ましい行進曲も付けて放映し始めた。その映像を見た瞬間、私の脳裏には30年前、6月の天安門の出来事が鮮烈によみがえってきた。

 

◆観光ビザで北京入り

 

 民主化を求める学生が天安門で座り込みを続ける1989年5月20日、中国政府は北京市に戒厳令を布告した。この時、北京にはゴルバチョフ訪中という中ソ和解取材を終えた西側のジャーナリストが300人以上滞在を延長し、学生の民主化運動の取材に当たっていた。マニラ支局長の私も戒厳令長期化に備え、香港で観光目的のビザを取得し、5月25日には北京に入り系列の合同取材班に合流した。

 私が北京入りしたその日から衛星回線は一切禁止され、東京キー局の支局長が外交部に呼び出され取材上の警告を受けるなど、外国人に対する締め付けが日ごとに厳しくなっていた。

 このため、取材ではナンバーの知られている支局車は使えず、電話は盗聴の恐れがあるため暗号じみた会話に終始した。また取材済みテープはウーロン茶の箱などに偽装し日本へ一時帰国する乗客に託していた。

 

◆ささやかな夢を語る学生

 

 戒厳令布告後の北京では、鄧小平氏はもちろんのこと、失脚のうわさも出ている趙紫陽総書記、また学生らの行動を暴乱と決めつけた李鵬首相らの動静は皆目つかめなかった。

 従って取材のほとんどは、天安門広場の人民英雄記念碑を中心にテント村を張る学生たちの動向に向けられた。もちろん戒厳令指揮部の通達では、外国人記者は一切取材ができないことになっていた。

 中国語のできない私は、深夜になるとホテルを抜け出し、天安門広場に集う外語系大学の学生らを中心に取材した。彼らは一様に「私たちは鄧小平をはじめとする党幹部と対話したいだけだ。我が国には報道・表現の自由がない。加えて今、中国では高級幹部の経済開放に悪乗りした汚職やその子弟の就職の独占が目に余る」と答えた。

 そこで私は「それでは君たちは現在の共産主義体制を否定するのか」と尋ねた。彼らは「そんなことは考えていません。ただ老幹部が民衆の正しい声を理解する耳を持っていません。私たちはゴルバチョフのような新しい指導者が欲しいのです」と答えた。日中30度を超すテント村は異臭を放ち始めていたが、ささやかな夢を語る彼らの目は輝いていた。

 ただ、学生の一人が語った言葉は私の胸に突き刺さった。「解放軍は人民の軍隊です。でも万が一、私たちに何か起きたならあなたたち外国人ジャーナリストはぜひ世界の人にありのままを伝えてください」と私の目を見据えて訴えた。その時私は、「万が一」という学生の言葉に一抹の不安を覚えながら、彼らが広場に建てた『民主の女神像』を眺めていた。

 6月1日、私たち取材班は、支局長宅で日本から激励に駆けつけた夫人の手料理を前にくつろいでいた。

 しかし、この和やかな時間も、中央電視台の夕方のニュースを見て吹き飛んでしまった。無表情のアナウンサーが戒厳令指揮部の発表を読み上げた。内容は、外国人による天安門広場などすべての公共の場所は取材禁止、中国人との接触も禁止するという最後通告だった。部屋の中には暗く重い沈黙が流れた。記者が現場に近づけない。カメラマンが対象を撮影できないかもしれない。私はこれまで経験したことのない「権力の弾圧」が忍び寄る恐怖を感じ始めていた。

 6月2日、この日早朝から戒厳軍を北京郊外で見たとの噂話が流れ始めた。そこで深夜、支局員と二人、北京郊外の盧溝橋まで漆黒の闇の中を戒厳軍の姿を探し求め車を走らせたが、軍の確認はついにできなかった。

 あの時、ヘッドライトの先に戒厳軍の戦車が現れていたらと想像すると、今思い出しても冷や汗が出てくる。

 

◆ホテル前線基地に公安警察乱入

 

 ところでこの2日の夜、軍は千人ほどの丸腰の部隊を訓練と称して天安門周辺を行進させた。この部隊は市民に行く手を阻まれ、兵士らは群衆に小突かれ、ある兵士は帽子や靴まで脱がされて撤退した。

 後にこの丸腰部隊の投入は、学生、市民を暴徒と決めつける戒厳軍の口実づくりになった。

 6月3日、私たち前線班の4人は、天安門広場を見渡せる北京飯店に前線基地を移した。その部屋からは、広場の北半分が望めた。

 そして夕刻、1両の装甲車が長安街を埋めた数十万の群衆を踏み倒す勢いで西から東へ駆け抜けた。時折小銃を発射しながら進むこの車両は、まさに武力弾圧の先導役を果たした。私たちはこの模様をベランダから撮影していたが、「まともな形」での取材はこの時が最後となった。

 直後、部屋のドアが激しくたたかれた。「ヤバい、公安だ!」。一瞬、全員の顔から血の気が引いた。私は、ドアが開く瞬間に取材済みのテープを靴の中に放り込んだ。すさまじい形相をした二人の公安が怒声を上げながら乱入してきた。彼らは、今後ベランダでの撮影を見つけ次第連行すると強く警告し立ち去った。

 取材現場に踏み込まれたのは外国人取材陣で我々が初めてだった。私たちはしばらく全ての思考が停止したような金縛り状態になった。

 やがて日が暮れると、天安門広場の方向から乾いた銃声音とともに悲鳴が聞こえてきた。私は、傍らのビデオカメラをとっさに握り締め天安門に一人向かった。

 

◆下着にテープ隠しホテルへ走る

 

 6月4日未明、戒厳部隊の銃声音や戦車のキャタピラの地響きの音の合間を縫って、天安門広場の人民英雄記念碑の方向から学生たちのインターナショナルの合唱が聞こえてきた。若い学生たちの歌声は、まさに断末魔の叫びに聞こえた。そしてその瞬間、取材で接した学生たちの顔が次々と脳裏に浮かんできた。戒厳部隊は、威嚇発砲と言いながらも銃口は数万の学生と市民に向けられていた。私の両脇にいた市民の何人かは跳弾が足などに当たり自転車ごと路上に倒れた。私は、乾いた小銃音を背後に聞きながら、ビデオカメラを路上に投げ捨て、最後のテープを下着に隠しながら無我夢中で前線基地のあるホテルを目指して走った。

 天安門の武力鎮圧から数日後、私は北京から脱出するように香港を経由してマニラに戻り、そして3カ月後支局長の任期を終えた。

 しかし、帰国後もしばらく虚脱感から抜け出せなかった。果たして自分はジャーナリストとして天安門広場での悲劇的な学生の姿を視聴者に伝え切れたのだろうか、悔いが残っていた。

 私は65歳の定年まで、テレビ局の現役の記者として国内外の現場に立つことにこだわり続けた。北朝鮮、ルワンダの虐殺現場、パレスチナ、米国同時多発テロ、取材した国は50に近い。多くの現場に私を駆り立てた原点は「ありのままの真実を世界に伝えてください」と訴えたあの天安門広場の学生の一言だった。

 今、香港市民は「民主主義の灯」を必死に守ろうとしている。中国政府による、30年前の悲劇の再現だけは絶対にあってはならない。

 

いわた・きみお

1949年6月生まれ 学習院大学法学部卒 読売テレビ入社 マニラ支局長 解説委員長 特別解説委員を経て 2015年学習院大学 特別客員教授 19年4月より学校法人学習院フェロー就任 BS11「報道ライブインサイドOUT」メインキャスター 読売テレビ「ウェークアップ!ぷらす」コメンテーター

 

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