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1月から長期連載スタート 「大川小の教訓」伝える使命(河北新報社 山﨑敦)2018年3月

石巻市立大川小学校は東日本大震災の大津波に襲われ、全校児童108人中、70人が死亡し、今も4人の行方が分からない。児童を保護していた教職員10人も亡くなった。「最も安全なはずの学校にいたのに、なぜ、わが子は亡くなったのか」。戦後最悪とされる学校管理下の事故にもかかわらず、震災から7年がたつ今も遺族は納得のいく答えを得られないでいる。

 

河北新報社は1月12日から長期連載「止まった刻 検証・大川小事故」を始めた。「止まった刻」は、あの日から止まった遺族の心と大川小の壊れた時計を表し、検証により1分1秒でも時計の針を進められたらとの願いを込めた。

 

検証は基本的に①3月11日午後2時46分の地震発生から津波襲来まで②遺族が提訴する大きな理由となったメモ廃棄など石巻市教委による事後対応③仙台高裁で焦点となっている事前防災―の三つの柱から成る。

 

「なぜ、今、大川小なのか」と聞かれるたび、遺族の疑問がいまだに解消されていないことに加え、「2018年は大川小にとって二つの大きな節目の年だから」と答えている。

 

一つ目は裁判。16年10月の仙台地裁判決は「教員らは大津波の襲来を予見でき、裏山に児童を避難させるべきだった」と学校の責任を認め、計約14億2600万円の支払いを石巻市と宮城県に命じた。市と県が控訴し、仙台高裁判決が4月26日に言い渡される。原告が勝てば、判決は全国の教育現場にとって新たな「指針」となる公算が大きい。

 

二つ目は1873(明治6)年に開校した大川小(当時は釜谷小)が3月に閉校するためだ。震災後、大川小は内陸の二俣小の敷地内に仮設校舎を建てた。児童数の減少により、二俣小と統合し、145年の歴史に幕を下ろす。

 

大川小の取材は当初から困難が予想され、今も手探りの状態が続く。当時、学校にいた教職員11人中、唯一、助かった男性教務主任(56)は心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症し、今も病気休職中だ。津波襲来時、学校にいて助かった児童4人のうち、取材に協力してくれているのは当時5年の只野哲也さん(18)=高校3年=だけだ。

 

■語り始める卒業生たち

 

証言者は限られ、しかも高いハードルが待ち受ける。新たに協力を得られたとしても、7年の歳月による記憶の揺れなどが立ちはだかる。一方、7年たつ今だからこそ、重い口を開いてくれた関係者も少なくない。

 

当時の状況を再現し、検証する作業は一筋縄ではいかないが、うれしい出来事もあった。当時の5年生は今18歳、6年生は19歳になった。自らの意思で取材に応じてくれ、貴重な新証言を集めることができた。あの日の校庭の様子をリアルに再現できたのは、卒業生たちの驚くべき記憶力のおかげだ。

 

震災で悲しい思いをする人たちを二度と生まない―。「大川小の教訓」を広く伝えることが地元紙に課せられた使命だと思う。同時に取材班の思いは、長男大輔君=当時(12)=を亡くした原告団長今野浩行さん(56)の次の言葉に集約される。

 

「学校防災の教訓のために子どもを産み、育てたわけではない。本人には夢もあった。助からなかったため、教訓という言葉を使うしかない。あの日、校庭で何があったのか? 事前の備えは十分だったのか? なぜ、大川小だけだったのかを検証しなければ、次の教訓にはならない」

 

なぜ、大川小だけなのか? 多くの記者が挑んできたが、達成感に浸っているとの声は聞かない。全国の記者たちと切磋琢磨しつつジグソーパズルのピースを埋めていきたい。

 

(やまざき・あつし 大川小事故取材班キャップ)

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