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避難所生活疑似体験イベントを実施 県内仮設にいまだ約7800人(岩手日報社 太田代剛)2018年3月

被災者は、東日本大震災の風化を恐れている。岩手日報社などが組織した実行委員会はその思いを受け、2月14~16日、被災地の岩手県陸前高田市で、東日本大震災の避難所生活を疑似体験し教訓を伝えるイベント「いざ・トレ」を初開催した。

 

南海トラフ地震が想定される地域の行政関係者や全国の新聞社、テレビ局の防災担当記者ら約90人が参加。震災で実際に避難所となった同市高田町の市スポーツドームにテントを張り、一斗缶で火をおこし、暖房や照明を落とし、寝袋で一夜を過ごした。外は大雨。恐ろしい雨音が響く中、午後10時半に就寝した。最初はなんとか眠れたが、午前1時、3時、5時と時が進むとともに、地べたの冷えがじわじわとしみてくる。寝袋の中でがたがたと震えが止まらず、起床時刻の同6時にはすっかり精根尽き果てた。

 

この日の陸前高田の最低気温は0・5度。2011年3月12日未明の最低気温の記録は停電の影響で残っていないが、「小雪が舞った」という被災者の証言があり、氷点下だったと思う。

 

テントも寝袋もなく、家族の安否も分からず、いつ救援が来るとも知れず、真っ暗な一夜を過ごした被災者の苦難は、疑似体験とは比べものにならないほど厳しいものだった。

 

震災から間もなく7年。あの日、津波に襲われた同市気仙町の県立高田病院の屋上で凍える一夜を過ごした土岐民子さん(88)は、今も同市小友町の仮設住宅にひとりで暮らしている。

 

土岐さんは病院の屋上からヘリでつり上げられ、同市の第一中学校避難所に降ろされた。心臓の持病のため、東京都内の病院に入院した後、仮設住宅へ入った。

 

旧士族の家に嫁ぎ、13部屋もある大きな家で厳しいしきたりに苦労しながら、小学校の教員を勤め上げた土岐さん。小さな仮設住宅でも名家の誇りを守って暮らし、取材にもりんと応じてくれたが、震災後7年の思いを尋ねた時にだけ「最初はすぐ新しい家が建てられると思っていたけれど、ずいぶん待たされた」と深いため息を漏らした。

 

土岐さんを取材した2月17日は、震災から2535日目だった。心休まる日は、そのうち何日あったのだろうか。同市中心部の区画整理事業は、20年度まで続く。

 

岩手県内では、今も7758人が仮設住宅(1月末現在、みなし仮設を含む)で避難生活を送っている。私たちは8年間の岩手県復興計画が最終年度となる18年度を前に、土岐さんら仮設住宅に残る被災者を一人一人訪ねて改めて思いを聞き今後の報道の指針を見いだそうとしている。

 

地震や津波の発生予測は、最新の科学をもってしても難しい。朝、普段通りに朝食を取り、「いってきます」と元気に玄関を出て行った家族と突然二度と会えなくなる、残酷な災害だ。被災者が絞り出す「もっと親孝行してやりたかった」「娘が行きたいと言っていたディズニーランドに、一度でも連れていってやりたかった」「苦労をかけた妻に、一言『ありがとう』と言ってやりたかった」という言葉の全てに、悔しさがあふれる。「風化への恐怖」を形成しているのは「もう二度と、誰にもこんな思いをしてほしくない」という切なる思いだ。

 

20年の東京五輪が近づく一方、震災の記憶は風化していく。私たちは、仮設を出る最後の一人まで、それぞれが望む形で生活再建を果たし、長過ぎた避難生活に笑顔で終止符を打つまで復興は終わらないと考える。震災10年を迎える前に「復興五輪」という見出しを胸を張って打てるよう、被災者に寄り添っていきたい。

 

(おおたしろ・たけし 報道部次長)

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