ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


書いた話/書かなかった話 の記事一覧に戻る

世界と日本が交差した1989年 /天安門事件後、伊東氏訪中に同行(鈴木 美勝)2019年5月

 2019年5月1日、日本では新天皇が即位し、元号は平成から令和に改まった。30年前の平成元年(1989年)を思い起こせば、天皇崩御に伴う昭和の閉幕と「ベルリンの壁」倒壊に伴う冷戦終結宣言―日本人が重く深く絡み合った〈二つの終焉〉を目撃/体験した新時代への〈終わりの始まり〉だった。この年は筆者にとって今もその鮮烈な記憶から消えない、もう一つ歴史的大事件があった。民主化運動を弾圧、人民解放軍が民衆に銃口を向けた中国の六四天安門事件だ。間もなく、30周年に当たる6月4日がやってくる。(事件から約3カ月後。西側の対中制裁に加わったために悪化した日中関係の修復に向けて、伊東正義=当時自民党総務会長、元外相=が日中議連を率いて中国を訪問した。天安門事件後、「西側要人として初の訪中」に欧米のメディアも注目、筆者はこの訪中に同行取材した)

 

◆「胡耀邦のことが好きだったぁー」

 

 天安門事件のあった1989年、政治記者だった筆者は国内政局を追っていた。当時の日本では政官財界の要人にリクルート社が子会社の未公開株を譲渡した贈収賄事件が発覚して政界の浄化が叫ばれる中、竹下登首相が辞任し後任に宇野宗佑が就任、1カ月余にわたる政変劇がようやく一段落したところだった。そこに飛び込んできた驚愕の国際ニュース、それが天安門事件だった。外務省中国課は、にわかに慌ただしくなった。

 7月、フランスで開かれたG7アルシュ・サミットでは、中国を非難し制裁を実施する政治宣言(閣僚などその他ハイレベルの接触、武器貿易停止、世界銀行の新規融資の審査停止)が採択された。賛同した日本は第3次対中円借款を凍結した。

 宇野政権が短命に終わり、海部政権の下で、対中制裁に加わった日本と中国との関係は当然ながら悪化した。こうした中、日中修復への第一歩として白羽の矢が立ったのが、伊東正義だった。伊東は、ポスト竹下選びで最有力候補と目されたが、「表紙だけ変えてもダメだ」と拒否、「総理大臣の椅子を蹴飛ばした男」と称された政治家。1930年代、農林省入省したての頃に大蔵省の大平正芳と知り合った伊東は、日中戦争勃発を機に各省の対中政策を調整する機関として創設された興亜院に共に出向した。その縁もあって二人は戦後の政界で盟友となった。伊東は日中国交回復に外相として尽力した大平が首相在任中に急逝した後も、毎年のように中国を訪れ、中国に最も太いパイプを持ち、最も強い精神的絆を築いた親中派議員だ。「日中関係は、アメリカとか、ヨーロッパとの関係とは違う」が口癖で、天安門事件の約3カ月後、北京に飛んだ。

 鄧小平を中心とする指導部が同事件を「動乱」と決めつけたこともあり、その時の訪中は歓迎/歓待の「気楽な旅」と違って、伊東には「気の重い旅」だった。

 時に車の箱乗りでの差しの取材を通じて伊東の揺れ動く心理が伝わってきた。「俺は肩肘張らずに、淡々として行ってくるよ。でも気が重いなあ」。そして、ボソリと一言口にした。「胡耀邦(のこと)が好きだったぁー」。天安門事件は今なお検証もなされていない中国共産党最大のタブーだが、民主化に積極的だったがゆえに失脚した胡耀邦(党総書記)の死去(4月15日)が、その引き金となったことは明らかだった。

 9月18日午後、北京中心部の故宮の西に隣接する〈中国権力の象徴・中南海〉に招き入れられた伊東は、西側メディアの前に初登場した新総書記・江沢民と会談した。われわれ同行記者団に日本語で語りかけて愛嬌を振りまいた江沢民は会談の頭撮りになると、伊東を持ち上げた。

 「御高名はかねがね伺っております。中国には『雷鳴が耳元で響くほど名前をよく聞いている』という諺があります」。伊東は翌19日、この訪中の最大の眼目である旧知の最高実力者・鄧小平と会談した。鄧小平は「中国は制裁を恐れない。制裁による損失は、いつか制裁者自身に跳ね返る」(20日付『人民日報』)と強調、西側の制裁には屈しない意思を伊東に伝えたが、伊東訪中のもう一つのポイントは北京入りの初日にもあった。

 17日昼前、北京空港に到着した一行は、北京市内に一歩も足を踏み入れず、「地方視察中」と理由付けされた李鵬首相との会談のため、呼びつけられる形で遼寧省・瀋陽に向かった。初日は、その夜の李鵬との会談後、即、北京にとんぼ返りする分刻みの日程となった。同行記者も、林義郎(後に蔵相)と外務省の横井裕中国課長補佐(現駐中国大使)から会談のブリーフを受けるのもそこそこに、原稿をその場で送ることもできず、瀋陽を後にした。

 原稿は、中国民航特別機に秘かに持ち込んだ「手持ち電話」(大型の携帯電話)で、北京に近づいた機上から東京に直接、口頭で吹き込む慌ただしさだった。今では、こうした機上発信は許されないが、当時は何ら制限がなかった。

 

◆李鵬発言に隠された含意

 

 天安門後の中国の出方を占うキーワードは李鵬の発言に隠されていた。その発言とは、米国が対中制裁の一方で「友好のシグナルを送ってきている」というのと、「西側の対中封鎖を打破するのに日本は大きな役割を果たせる」という二つの言葉だった。

 前者は、ブッシュ米政権が天安門事件後いち早く送った大統領の親書であり、それをもって極秘裏に進められたブレント・スコウクロフト(米国家安全保障担当大統領補佐官)の訪中(7月1日)を指していた。その前日、米政府は対中制裁措置として「政府高官の接触禁止」を世界に向けて高らかに宣言したばかりだ。自らがその「禁則」を破ったのである。極秘訪中が明るみに出るのは、その半年後、米ソ首脳によるマルタ島での「冷戦終結宣言」直後に行われた2度目のスコウクロフト訪中の後だった。

 後者の李鵬発言は、西側の対中制裁網を突破するには「最も弱い一環」である日本を制裁打破の「最も良い突破口」にするとの言い換えである。日本は中国の積極的なアプローチに応え、約2年後、国内になお慎重論があるにもかかわらず、他国に先駆けて対中円借款の凍結を解除する。

 『銭其?回顧録』によれば、それは、天皇訪中までをも視野に入れた国家戦略に連動していくものだった。中国側が長く切望してきた天皇訪中は、3年後の1992(平成4)年10月に実現する。

 

◆いま30年後に思う

 

 いま、改めて感じることがある。

 1989年の歴史的大事件を機に、世界の地殻変動に加速度がつき、それまで冷戦構造の防護壁によって守られていた日本外交に諸外国からの剥き出しのパワーが伝わるようになった。

 経済力ばかりでなく軍事力でパワーを誇示する大国同士の関係には、どんな国家にもある国益のほかに、「大国益」とも言うべき、(超)大国同士特有の共通の利害が存在する。そして、利害の共有、すなわち利益の獲得と保全/損害の制御と回避が、時として体制の違いを超えて〈結託〉を促すケースもある。その意味で、米国には同盟国日本の頭越しにでも中国との関係を尊重する「大国益」が存在する点を強く意識しておかなければならない。〝ニクソン・ショック〟は二度に止まらず、三度来る可能性もある。

 2019年が明けた時、友人の外交官から、中国では「9」の付く年に「必ず大きなことがある」と言われた。「逢九必有大事(九に逢えば、必ず大事あり)」―中国の歴史との因縁に触れた警句で、人々の間で長く言い古されてきた。天安門事件30周年以外にも、今年は、元旦・米中国交樹立40周年(1979)/3月10日・チベット蜂起60周年(1959)/5月4日・五四運動100周年(1919)/10月1日・中華人民共和国建国70周年(1949)―ざっと列挙しただけでも、中国には「9」が取り持つ数多くの〝因縁史〟が並ぶ。

 現状に満足していない人の中には「必有大事」を「必有乱(必ず乱あり)」に読み換える者もいるという。

 

すずき ・よしかつ

早稲田大学政経学部卒 1975年時事通信社入社 千葉支局 政治部で政局 外交・安保などを取材 ワシントン特派員 政治部次長 ニューヨーク総局長 解説副委員長 『外交』編集長を経てフリーランスに 慶應大学SFC研究所上席所員 立教大学兼任講師 著書に『日本の戦略外交』 『いまだに続く「敗戦国外交」』 『小沢一郎はなぜTVで殴られたか』など

 

ページのTOPへ