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歌舞伎取材30年/名優との出会いは宝(河村 常雄)2019年4月

 昭和60年4月1日、東京・歌舞伎座で十二代目市川團十郎襲名披露公演の初日の幕が開いた。この日は歌舞伎史にとってちょっとした記念日になるのではないかと思っている。というのも、この日から歌舞伎ブームが始まり、バブル崩壊やリーマン・ショックを乗り越え、今なお歌舞伎が好調だからである。

 そして、私にとっても思い出深い日なのである。

 

◆十二代目團十郎襲名が初取材

 

 読売新聞の記者だった私は、團十郎襲名取材を機に芸能部(現文化部)に異動し、念願の歌舞伎担当になったのである。以来退職後も含め30年にわたる取材を振り返る。

 襲名初日、新團十郎の楽屋を訪ねると、この日の天気のように晴れ晴れとしていた。

 しかし、平成21年に読売電子版連載でインタビューした際、大名跡の襲名に逡巡したこともあったと語ってくれた。このことなど拙著『家元探訪』で紹介している。

 あくまでまっすぐな人だったが、平成25年、66歳で他界した。昨年、團十郎の骨髄バンク運動支援など歌舞伎以外の活動を取材したが、多くの人が人柄の良さをたたえた。

 團十郎の前々名は新之助。昭和40年頃、菊之助を名乗っていた現尾上菊五郎、40歳で亡くなった初代尾上辰之助(現尾上松緑の父)の三人が三之助として人気を集めた。

 その菊五郎は楽屋を訪れるとたいてい陽気でにこやかだった。しかし平成15年6月、人間国宝に認定されたとき、公演先の福岡で開いた記者会見ではいつもと違う一面を見せた。同世代で最初に選ばれたことについての私の質問に「役者は競争。遅いより早い方がいい」とはっきり答えた。役者間の切磋琢磨が垣間見え、印象的だった。記事は同月21日読売朝刊「顔」に掲載した。

 もう一人の辰之助。昭和61年11月27日付読売夕刊で、大病からの舞台復帰について聞いた。新しい生き方を話していたのだが、翌年3月に不帰の人となった。この人が生きていたら歌舞伎地図も変わっていたであろう。

 三之助の前後は本当に人材豊富だ。

 まず昨年、松本幸四郎から名を改めた二代目松本白鸚。「勧進帳」の弁慶を千回以上演じる一方で、ミュージカルやテレビドラマでも活躍している。若き日の昭和63年4月15日付読売夕刊で、歌舞伎との両立を熱っぽく語っている。

 その弟、中村吉右衛門。平成18年5月10日から6月8日まで読売朝刊に連載した「時代の証言者」では、生い立ちから子役のころ、東宝時代、「鬼平犯科帳」のこと、子供教室、初代吉右衛門の芝居伝承の意欲などを語ってくれた。島根県松江市の小学校で指導しているのを見たが、実に楽しそうに解説していた。

 二代目市川猿翁は、三代目猿之助当時、宙乗りやスピード、スペクタクル、ストーリーの3Sを強調したスーパー歌舞伎で知られた革命的俳優。昭和の終わりのころ何度か軽井沢の稽古場を訪ねた。猿翁は弟子や若手俳優を、さん付けで呼んでいたが、指導は厳しかった。平成元年2月、歌舞伎・京劇合同公演「リュウオー」の北京での合同稽古に同行した。猿翁は歌舞伎の国際化への意欲がみなぎっていた。

 この世代では、片岡仁左衛門、坂東玉三郎、中村梅玉らにもしばしば話を聞いた。

 少し年代が下がると中村勘三郎と坂東三津五郎。相次いで還暦前に亡くなった。二人は30歳ごろ歌舞伎座8月公演の主役を務めるようになり、会うと夏は任せてとばかりに張り切っていた。勘三郎で記憶に残るのは、父十七代目勘三郎が他界した昭和63年4月16日。訃報を聞いた後も国立劇場「髪結新三」に取り組む勘三郎(当時勘九郎)を楽屋取材した。次男七之助の手を引き神妙に舞台に向かう姿を目撃した。役者の厳しさを感じたものだ。

 勘三郎は後に、江戸の芝居小屋のようなところでやりたいと言っていたが、それは渋谷のコクーン歌舞伎や浅草の平成中村座に結実した。いつも芝居の夢をエネルギッシュに語っていた。

 いつ会っても冷静だったのは三津五郎だ。平成20年に読売電子版で、生い立ちや出演した映画のことなどを語ってくれた。これは『家元探訪』に収められている。俳句への造詣の深さも印象に残る。

 この人は日本舞踊坂東流の家元でもあった。全国から集まった師範を指導しているのを見たことがある。5、6人ずつ並べて踊らせる。一曲が終わると駆け寄り、一人一人指導していた。これが2日間続くそうだ。歌舞伎の看板俳優と大流派の家元を兼ねるのは大変であったに違いない。

 

◆名女形、歌右衛門に感激

 

 次に戦後の歌舞伎界を支えた名優を振り返る。

 中村歌右衛門は昭和後期の歌舞伎界をリードした名女形。本名が私と同じ河村であることから親しく接してくれた。昭和62年1月14日付読売夕刊の新企画「芸談」に歌右衛門の芸談を執筆した。大御所が1回の記事に3度も取材に応じてくれ感激した。女形の神髄を語ってくれた。平成5年9月の出雲阿国歌舞伎に同行、出雲大社の石のウサギに声をかけているほほえましい光景も見た。

 「芸談」はその後、尾上松緑(当代の祖父)、尾上梅幸、片岡仁左衛門(当代の父)と続き、他ジャンルの芸談と共に朋興社刊『芸談』にまとめられた。

 この後も市村羽左衛門、中村雀右衛門(当代の父)、坂田藤十郎、中村富十郎、中村芝翫(当代の父)らから芝居や芸の話を聞いた。これは私の財産である。

 

◆伝統と新時代、若手にも期待

 

 さて、この思い出話も終幕に近づいた。あまり接点のなかった若い世代を取り上げる。

 平成元年11月、市川新之助と尾上丑之助が、ミュージカル「ライル」に出演するという話題を書いた。今の市川海老蔵と尾上菊之助である。共に小学6年生ながら、品のある貴公子であった。

 もう二人。中村勘太郎と中村七之助兄弟を昭和63年7月26日付読売夕刊「蛙の子」という連載企画で取材した。二人はソファの後ろから飛び込み前転する。何度も何度も見せてくれるのでハラハラしたことを覚えている。6歳と5歳のやんちゃで可愛い坊やも勘太郎は勘九郎に改め大河ドラマの「いだてん」の主役を務め、七之助は女形のホープだ。

 最後に今年出席した記者会見を二つ。

 1月14日は新しい歌舞伎座で開かれた十三代目市川團十郎白猿の襲名会見。市川海老蔵が来年5月に父の後を継ぎ、十三代目になるという。「伝統を守ると共に、新しい時代を感じさせる團十郎に」と堂々と話した。この人なら、何かやってくれそうだ。

 そして2月27日は、七代目尾上丑之助初舞台。私は壇上に並んだ丑之助の祖父菊五郎に、初舞台以来の70年を振り返っての感想を聞いた。答えは「こつこつ勉強して、ようやく『兄さん教えてください』と言われるようになった。歌舞伎界に対する恩返しですね。知っている限りのことは教えているつもり。これが次の世代につながればありがたい。これがあるから連綿と続いてきた。歌舞伎に感謝です」

 それを聞いて私も歌舞伎隆盛期に立ち会い、報道の一端を担えたことに感謝する。

 (文中敬称略)

 

かわむら・つねお

1948年生まれ 1973年読売新聞社入社 水戸支局 整理部を経て 85年芸能部(現文化部)演劇担当に 同部次長 専門委員など 退社後 読売・日本テレビ文化センターに勤務 文化庁芸術祭 芸術選奨 鶴屋南北戯曲賞の選考委員なども務めた 著書に『かぶき立ち見席』『家元探訪―未来を見据える十人』など

 

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