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発表35分前、元号「平成」を入手 しかし、号外は出されなかった(仮野 忠男)2018年5月

 天皇陛下の退位(2019年4月30日)と、皇太子さまの新天皇即位(同年5月1日)が決まり、それに伴う改元問題が残された大きな焦点となってきた。

 

 今のところ新元号発表の時期については、現在の陛下の在位30年記念式典が開かれる19年2月24日以降では、という見方が有力視されている。ということは、19年が明けたころから新聞・テレビ各社は激しい元号取材合戦を展開するに違いない。約30年前の「昭和」から「平成」への改元の際と同様、恐らく大変な激戦になるだろう。そうしたことを想像すると、「現役の政治記者諸君は大変だな」と同情せざるを得ない。

 

 ところで私は「平成」改元の際、毎日新聞政治部の首相官邸記者クラブ・キャップだった。昭和天皇の大量吐血(1988年9月19日)以降、いわゆるXデーがいつ来るか分からない中、緊張感と寝不足で、それこそ死ぬような思いを経験した。結局、昭和天皇は111日目の89年1月7日に逝去されたわけだが、この間は、自宅に帰る時間的余裕も、近くの高額ホテルに泊まる経費もなかったことから、何度、記者クラブのソファーや国会記者会館の長椅子で夜を明かしたことか。

 

 そのうえ、この当時は改元問題以外に、リクルート疑惑がどこまで広がるか、竹下登首相(当時。故人)が導入しようとした消費税法案の国会審議がどうなるか、という問題もあった。それら全部に目を配らなければならないわけで、私は「ヘレン・ケラー女史並みの三重苦だな」と嘆息しつつ、フラフラになりながら111日間を過ごしたものである。

 

 改元に関しては、どの新聞社もスクープしようと目をぎらつかせていた。特に毎日新聞(当時は東京日日新聞)には「大正」から「昭和」への改元の際、「次の元号は光文」という号外を出し、結果的に〝誤報〟となった暗い「過去」があった。それだけに私は「他社に負けるものか。光文事件の雪辱を果たすぞ」と必死だった。

 

 ◆首相官邸が〝報道管制〟

 

 報道陣に対して首相官邸側は、徹底的な〝報道管制〟を敷き、「どこかの社にスクープされた場合は、ただちに元号を取り換える」とけん制した。それは「スクープしたら、その新聞社は光文事件の時の毎日新聞のように編集幹部や記者が辞任・降格せざるを得ない事態になりますよ」という〝脅し〟と言ってよかった。

 

 しかし、私たちは小渕恵三内閣官房長官(当時。故人)が記者会見で「新しい元号は平成であります」と発表する35分前に「平成」を入手した。「もし他社に抜かれでもしたらクビになるだろうな。負けたら辞表を出そう」などと覚悟していただけに、安堵したものだ。

 

 ちなみに新元号を入手したのは私ではない。部下のA記者(男性)だ。その記者の実名は今も明らかにしていない。なぜか。ひとえに取材源を秘匿するためだ。

 

 昭和天皇が大量吐血した後、私は政府の元号決定スケジュールを手に入れた。それによると、全部で十数点あった案を3点に絞り込み、竹下首相が「これだ!」と指さしたものに決まる、ということだった。そこで「竹下首相が決めた直後に取ればいいんだ。閣議決定作業に入れば、たとえスクープしても取り換えられることはないだろう」と考えた。

 

 ◆二人だけの隠密取材

 

 問題は、どこから、どう取るかだった。私は、官邸側がどんなにガードを固めたとしても、どこか穴があるはずだと考えた。そうこうしているうちにA記者が「キャップ、こういう方法でどうでしょうか」と言ってきた。「行けるかもしれない」と直感した。私とA記者は、その取材源をウオーターゲート事件取材でスクープを連発したワシントン・ポスト紙に倣い、「ディープ・スロート」と呼ぶことにした。このことは他の部下には内緒にし、私たち二人だけで続けた。まさに隠密作戦である。

 

 ただし、政治部長には事前に「毎日新聞には、沖縄密約漏洩事件の際、わが社の記者が情報源の女性と『情を通じ』たことが暴露され、読者から指弾されたという過去があります。今回は、女性やカネに頼ったりはしません。正攻法で行きます」と伝え、了承してもらった。

 

 といったことなどを、思い出していたら今年2月中旬、永遠のライバル紙である朝日新聞政治部の記者から取材の申し込みを受けた。その趣旨は「毎日新聞は、平成をスクープしたと言っているが、実際のところを聞きたい」というものだった。「正確に書いてくれるのなら」という条件を付けて取材に応じた。

 

 その結果が、3月7日付の朝日新聞朝刊4面に掲載されたシリーズ企画記事である。「幻の新元号スクープ」「発表直前 毎日が入手」といった見出しのもと、以下のような文面だった。

 

 《1989年1月7日午後2時ごろ、首相官邸の記者クラブ。毎日新聞政治部の男性記者が、仮野忠男・官邸キャップに1枚のメモを手渡した。政府関係者から極秘入手したそれには、手書きで「平成」とあった。

 

 「取れました! 平和の『平』に、成田の『成』。ヘイセイです」

 

 仮野氏は東京・竹橋の本社で待つ担当デスクに電話した》

 

 《新元号「平成」スクープ――。89年2月1日付の毎日新聞の社内報には大見出しが躍る。だが新聞協会賞は申請されず、読売新聞は『平成改元』(出版先は行研)で「スクープもなく新元号『平成』は決まった」とした》

 

 このあと記事は①仮野キャップは「本社周辺だけでもいいから号外を配れないか」と編集局幹部に掛け合った。しかし、編集局内では「光文事件の二の舞になったらどうするんだ!」といった激論が起きた②2時36分、小渕官房長官が新元号を発表した瞬間、情報の正しさが裏付けられ、編集局内で拍手が起きた――ことなどが書かれている(正確かつ分かりやすくするために一部を修正した)。

 

 ◆夕刊3版掲載は毎日新聞のみ

 

 これらは、いずれも事実である。この日、政治部長は「平成で間違いない、という確固たる自信があります。すぐに号外を出してください」と編集局長に何度も迫った。それが朝日新聞が指摘した「激論」の中身である。しかし号外は出されなかった。代わりに「新元号は『平成』」というタテ見出しの入った夕刊3版を作成しておき、小渕長官の発表と同時に輪転機のスイッチを押した、というのが実情だった。3版に間に合ったのは毎日新聞だけで、他社はいずれも最終版(4版)だった。

 

 新聞協会賞に関しては、A記者が受賞できるだろうと私は期待していた。ところが発表前の号外配布という「物証」が残らなかったことから「協会に申請しても認められないだろうと判断し、申請しなかった」と後になって編集幹部から聞いた。期待は泡となって消えた。そのせいだろう、読売新聞だけでなく、他の多くの新聞、通信社、テレビ局は今も私たちのスクープを認めていない。

 

 数年前、当時の編集局長に「なぜ号外を出してくれなかったのですか」と改めて聞いた。彼は「光文事件があったうえに、昭和天皇が吐血した後の1988年9月26日に『マイニチ・デイリーニューズ』が昭和天皇逝去を悼む社説を誤って掲載し、回収する騒ぎを起こした。そのうえ新元号に関して誤報を犯せば、3度目のミスということになる。そうなれば毎日新聞に対する攻撃が起きかねない。だから非常に慎重になった」と答えた。

 

 不幸が重なったのは事実だ。しかし編集局の幹部たちが覚悟と決断力をもって当たってくれていれば、光文事件などでこうむった失地を回復できたのにと歯ぎしりしたものである。残念というしかない。

 

 

かの・ただお

1945年2月生まれ 早稲田大学第一政経学部卒 68年毎日新聞社に入社 山口支局 西部本社報道部 東京本社政治部 同部副部長 論説委員を経て 2001年選択定年退職 著書に『首相官邸物語』『新時代へのキックオフ』(いずれも角川書店)など

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