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機密文書に秘められた 日米の裏面史を追う(春名 幹男)2017年11月

1993年、2度目のワシントンに支局長として組合員の身分で赴任した。私自身、支局長業務に専念するつもりはなかった。

 

当時、支局の特派員は11人。日本のメディアでも最も大きく、各特派員の持ち場を国務省、国防総省、ホワイトハウス、議会などに割り当てていた。これらの領域を侵害してはいけないので、自分の担当は国立公文書館と米中央情報局(CIA)、と勝手に決めた。

 

終戦からちょうど50周年を前に、日本でも歴史物への関心が高まっていた。また冷戦終結直後でもあった。ワシントンでは、冷戦後の情報機関をどうすべきかというテーマのシンポジウムが頻繁に開かれていた。

 

可能な限り支局の雑用は午前中に済ませ、午後は取材活動に充てた。

 

 

◆米国立公文書館 東条の遺書や児玉機関資料も

 

国立公文書館には日参した。前回勤務の時から世話になった「アーキビスト」(文書管理官)のジョン・テイラーさんがまだ元気で働いていた。彼が自分の引き出しから出して見せてくれた分厚い名刺の束はほとんどが日本人研究者のものだった。

 

彼の方から電話がかかってきて行くと、「こんな日本人が来ている」と若い研究者を紹介され、文書の探し方を教えてあげたことが何回かあった。私はまるで日本人担当アシスタントのようでもあった。

 

いつものように彼の部屋で「ファインディングエイド」(文書捜索台帳)を使って文書をあさっていると、彼が「この『記録グループ(RG)』を見てみないか」と米陸軍情報部の人物ファイル台帳を見せてくれた。このファイルと出会い、仕事の方向が決まった。それから約6年後に出版された拙著『秘密のファイル上下』(共同通信社)の取材は、米陸軍情報部ファイルが出発点だった。

 

占領時代に連合国軍総司令部(GHQ)傘下参謀第2部(G2、情報)の「防諜部隊(CIC)」がまとめた児玉誉士夫や東条英機らの個人ファイルは、このグループにあった。児玉機関が所有した鉱山や鉱物資源、資産のリスト、さらに東条が自殺を図った際の医師の所見、遺書なども見つかった。

 

ただ、陸軍情報部文書にはキワモノもあった。GHQと関係があったある美人女優のファイルの中に、公開すべきではない性的な記述があった。そんな文書まで公開されていた。

 

太平洋戦争中の秘密情報工作に従事していた日本人の米共産党員の活躍ぶりを記した戦略情報局(OSS)文書も興味深かった。彼らは日本軍国主義と戦うため、CIAの前身のOSSにはせ参じたのだった。

 

その中に、戦前の一時期、野坂参三元共産党議長の在米秘書のような役割をしていたジョー・小出という人がいた。夭折したデンバー大学の同窓生の名前を盗んだ偽名だった。本名は鵜飼宣道。東京の銀座協会第四代牧師の長男で、青山学院を出て、中学の英語教師をした後、米国に留学し、アメリカ共産党に入党した。東大教授、国際基督教大学学長を歴任した鵜飼信成は実弟だった。

 

ジョー・小出はOSSがまいていた天皇批判のビラをやめさせ、日本人の心に訴える内容に変えさせた。米国立公文書館には、ドラマを秘めた文書が多々所蔵されている。

 

文書に書かれていた数々の逸話は、帰任後裏取りに追われた。

 

テイラーさんは2008年に87歳で亡くなったが、直前まで元気に公文書館で働いていた。拙著を渡すと笑顔で喜んでくれた。

 

 

◆シンポジウムきっかけに インテリジェンス研究へ

 

しかし、CIAの直接取材はハードルが高い。私が接触できた現役のCIA高官や工作員は、3、4人しかいない。彼らはジャーナリストとの接触を禁じられているからだ。

 

ただ、元CIA高官らとは比較的容易に会えた。故ウィリアム・コルビーCIA長官は友人のジャーナリストと親しく、彼の紹介で3度ほど食事をした。彼の話に特ダネ情報はなかったが、インテリジェンスに関する教養を深めることができた。

 

私にとっては、CIAが当時、年に2、3回開催していたシンポジウムに参加したのが大きな転機になった。私は全部で5、6回参加した。

 

CIA本部近くのホテルでの昼食会を皮切りに、CIA本部訪問、レセプション、講演などがセットになって、通常2日間。「トルーマン政権とCIA」「原爆投下」「暗号解読作戦『ベノナ』」などがテーマだった。ハーバード大学との共催で行われたこともあった。

 

通常入れないCIA本部は計3回訪問した。カメラやテープレコーダーは持ち込み禁止。外に駐車したバスの中に置いたままだった。

 

本館1階の公開部分しか入れなかったが、面白いのは博物館だった。取り壊した在モスクワ米大使館の壁の一部が展示されていたが、その断面に埋め込まれた盗聴器があった。

 

日米野球でベーブ・ルースと一緒に来日して、当時東京で一番高いビルだった聖路加病院屋上から写真を撮った、スパイの元捕手モー・バーグのカメラなどの遺品もあった。写真は東京大空襲の際に利用された。

 

食事を含めて参加費は無料だった。シンポジウムで機密文書が公開され、参加者にコピーが配られた。その都度、ニュースとして報道することができた。

 

秘密工作の法的根拠や歴史的経緯などが、公開文書とともに明らかにされたので、勉強になった。これをきっかけにインテリジェンスの研究を進めることもできた。

 

シンポジウムには、ロバート・ゲーツ元CIA長官や、ロシア・インテリジェンスに詳しいクリストファー・アンドルー英ケンブリッジ大学教授ら著名な元高官、歴史家らも時に参加して、休憩時間に貴重な話も聞けた。

 

元CIA高官らと知り合うことができたのも収穫だった。ある元CIA東京支局長は、東京ローンテニスクラブで皇太子時代の今上天皇とプレーした経験を誇りにしていた。

 

畏友ビル・バー(民間調査機関「国家安全保障文書館」上級研究員)やジャーナリスト、マックス・ホランド両氏らとは、このCIAシンポジウムで出会い、今も付き合っている。

 

冷戦終結後、一時期「CIA不要論」が議会で論議されたこともあった。これに対してCIAが反論するためにこうした連続シンポジウムを開催した、というのがCIA側の動機だったようだ。

 

 

◆元CIA高官は貴重な情報源

 

実はアメリカもコネ社会である。CIAの日本での工作について取材できたのは、アメリカ人の友達を通じて元CIA高官を紹介してもらったからだ。

 

故バッド・クラウザー元三井物産ワシントン事務所長と親しくなったが、彼自身がCIAの在京工作員だった。彼の同僚や上司、とコネを伝い、CIA本部の初代日本課長だったカールトン・スウィフト氏らにたどりついた。96年当時、彼は元気で取材に応じてくれた。また彼からも別の人を紹介してもらった。

 

クラウザー氏は初代CIA東京支局長ポール・ブルーム氏を尊敬していた。ブルーム邸の執事だった成松孝安氏らとは東京で何度も会い、詳しい話が聞けた。

 

吉田茂首相が時々ブルーム邸を訪れ、他の有識者らと談論していた▽ドナルド・キーン氏はブルーム氏の助言で日本文学の道を歩んだ▽成松氏の退職時にブルーム氏らが資金を出してスパゲティ店「壁の穴」を開店した―といった話が聞けた。

 

上記の畏友ホランド君から紹介された故サム・ハルパーン元CIA工作担当次官補佐官は、岸信介首相への選挙資金提供について「ブラックバッグ作戦だった」と話してくれた。だが、証拠の文書が見つからない。岸首相とCIAに関する文書は「機微区分情報(SCI)」として別途保管されている可能性がある。米国では何でも公開されているわけではない。いつか壁が破れたらと思う。

 

はるな・みきお

1946年生まれ 69年共同通信社入社 ニューヨーク特派員 ワシントン支局長として在米報道12年 論説副委員長 特別編集委員など 2007年退社後 名古屋大学大学院教授 早稲田大学大学院客員教授 94年度ボーン・上田記念国際記者賞 04年度日本記者クラブ賞受賞 著書に『米中冷戦と日本』(PHP研究所)『仮面の日米同盟』(文春新書)など

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