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旧ユーゴ紛争、重ねた現場取材 当事者たちの明暗錯綜、終止符に疑問(町田 幸彦)2017年9月

国家間の戦争や地域紛争には、戦況の構造を変えるどんでん返しの展開がつきものだ。20数年前、筆者は特派員として旧ユーゴスラビア紛争を取材していた。内戦の連鎖に一大転機をもたらしたのは、1995年8月のクロアチア政府軍総攻撃だった。実はあの時、特ダネを逃している。記者時代の苦い思い出だ。まずは、「書けなかった話」から―。

 

◆「セルビア掃討作戦開始」 情報を入手したが…

 

1989年の「東欧民主革命」「ベルリンの壁」崩壊と相前後して、日本の多くの報道機関は東ヨーロッパ担当支局をオーストリアのウィーンに開設した。90年代の東欧は、冷戦終結後の波乱万丈のドラマに満ちた舞台だった。筆者がウィーン駐在だった94~99年の5年間、仕事の大半は東欧諸国への出張。なかでも旧ユーゴ地域へは頻繁に行き来した。

91年のユーゴスラビア社会主義連邦共和国の解体後、民族紛争の惨禍は旧連邦領内でスロベニア、クロアチアに続き、ボスニア・ヘルツェゴビナへ飛び火していた。

 

ウィーン支局の事務所にいた95年8月3日の昼下がりのことだった。知り合いのクロアチア人が興奮気味の上ずった声で電話してきた。

 

「明日午前5時、ツジマン(当時のクロアチア大統領)がラジオ演説し、クロアチア政府軍はセルビア人勢力地域への一斉攻撃を開始するらしい。間違いなく領土の完全奪還を目指す大規模な作戦になるだろう」

 

伝えてくれた知人はクロアチア政府の内部事情に精通している。ウィーンで親しくなって、信頼できる人物だった。日本の朝刊最終版締め切りにはまだ十分間に合う。この時点で欧米メディアも含め、どの報道機関からも出ていない大ニュースだ。やはり、情報のウラ取りをしたい。クロアチアの首都ザグレブにいればと思いながら、ウィーンではなかなか確認できず時間が過ぎていった。

疑念もあった。確かにツジマン大統領は先に7月29日、政府軍総攻撃の可能性を警告する声明を出していた。しかし、駆け引きの言葉が飛び交う紛争地域にあって、当局の発表をどこまで額面通り受け取るかは判断が難しい。

 

もっと気になったのは、8月4日の各航空会社のザグレブ乗り入れ便の状況だった。外国の航空会社はすべて情勢悪化のためザグレブ行き便の運航を止めているのに、本国のクロアチア航空だけ通常運航になっていた。どのように理解すべきなのか。「作戦開始はまだ後なのか」と思う迷いがあった。結局、記事化を見送り、翌日クロアチアに飛ぶことにした。

 

4日早朝、クロアチア航空ザグレブ行き便に乗るため、ウィーン空港にタクシーで向かう途中、携帯電話に東京本社から連絡が入った。「クロアチア政府軍が総攻撃開始」という通信社の第一報。これを聞いて、ただ地団駄を踏むばかり。ザグレブまで空路約50分間。ああすれば、こうすれば…とずっと自問していた。後悔先に立たずである。

 

◆複雑な民族紛争の裏側 分裂・内戦の泥沼化

 

旧ユーゴ紛争は、91年に独立したクロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナの各共和国に散在するセルビア系住民をセルビア本国が軍事支援する形で長期化していた。クロアチアでは約40万人のセルビア人がいて、西部のクライナ地方など国土の3分の1を一時支配し、「クライナ・セルビア共和国」と称した。またボスニアでもセルビア人勢力は領土の最大7割を確保して、イスラム教徒系(旧ユーゴ連邦の民族籍名はムスリマン。現在はボシュニヤク=ボスニア人=という呼称が使われる)、クロアチア系の各勢力と戦闘を繰り返した。

 

これら3民族は元来、同じ南スラブ系民族であり、言語もかつてはセルボ・クロアチア語と総称されたほど、お互いに十分、意思疎通できる間柄だった。ハプスブルク帝国やオスマン・トルコによる占領時代が交錯する地域にあって、同じキリスト教でも正教徒のセルビア人とカトリックのクロアチア人との対立、先祖がイスラム教徒に改宗したボスニア住民らの孤立感など、複雑な歴史的経緯がそれぞれの民族意識に影を落としている。冷戦後の旧ユーゴ連邦で民主化の春は各地の民族主義台頭となって現れ、6共和国に分裂して紛争・内戦の泥沼化に及んだ。

 

この間、軍事力に勝るセルビア人勢力はクロアチア、ボスニアの戦地にあってほぼ優勢を保ってきた。それを完全な劣勢に変える戦端を開いたのがクロアチア軍総攻撃だった。ザグレブに入ってから、クロアチアおよびボスニアの旧セルビア人支配地域をクロアチア軍に同行して回った。

 

セルビア系住民の姿が消えるのは当初から予想できた。意外だったのは激しい交戦の跡があまり見られなかったことだ。すなわち、セルビア人の各部隊は応戦せずに逃走したようだった。後年、セルビア人部隊の指揮官の一人は、総攻撃の日には兵士が一人もいなくなっていた、と回想している。しかもセルビアとモンテネグロでつくる新ユーゴ連邦からの援軍はなかった。追われたセルビア系住民たちは一路、セルビア本国を目指す避難民となるだけだった。そういう結末がセルビア民族主義の最終章だった。

 

◆大セルビア主義の崩壊 ボスニアの街角にあふれた笑顔

 

クロアチア政府軍の掃討作戦によりセルビア人勢力から解放されたボスニア西部ビハチを訪れると、街角の人々の表情が活気を取り戻している。東京に送った原稿には率直な印象を次のように書いた。「みんな笑っていた。記者は、内戦が始まった1992年からボスニア各地を訪れたが、こんなに明るい光景を見たのは初めてだ」

 

あえて心情的描写を書き込んだ。その理由は、なにか大きな流れの変化が現場で感じられて仕方なかったからだ。今後、各戦線でセルビアの存在がしぼんでいく予感でもあった。大セルビア主義を鼓舞したミロシェビッチ強権体制は既に本国で疲弊し始めていた。

 

それにしてもクロアチア軍の大攻勢の勝因は何だったのか。明らかに戦闘能力は増強されていた。ザグレブに戻って会った国防省首脳はあっさりと認めた。「米国は今回の軍事作戦に参加していない。だが、われわれが(米国の)民間軍事会社の協力助言を得ているのは事実だ」

 

民間軍事会社の関与があったことは極めて重要だ。旧ユーゴ紛争は、民間軍事会社が本格的に(舞台裏にせよ)活動し始めた戦争として記憶されるべきだろう。

 

◆ボスニア和平 コソボ独立が残したもの

 

クロアチアでの取材を終えて8月下旬、セルビア南部コソボ自治州(当時)に行った。クロアチアから脱出したセルビア人避難民の一部約6000人はセルビア本国政府によりコソボに移住させられていた。人口(約150万人)の9割をアルバニア系住民が占めるコソボは、1980年代から旧ユーゴ紛争の予兆となった地域だ。コソボ分離独立を訴えるアルバニア系団体幹部は「セルビア化を図る試み」と猛反発した。

 

一方、再び民族対立のはざまに投げ出された避難民の人々はセルビアの一国民としてやり直せると思いきや、「難民」として認定するだけの行政措置に耐えていた。65歳の避難民で右足の不自由な男性は「物乞いにならなくて済むだけ、感謝している」と語り、筆者の前で泣き崩れた。

 

クロアチアの領土完全回復に続いて、95年12月にはボスニア和平協定が調印されたが、旧ユーゴ紛争にはコソボという起点が残っていた。99年にセルビア治安部隊とコソボ解放軍との軍事衝突をきっかけに、北大西洋条約機構(NATO)は対セルビア懲罰の軍事介入を進め、78日間に及ぶ空爆をセルビア、モンテネグロの各地に強行した。その後、ミロシェビッチ政権崩壊、コソボの独立宣言と相次いだ。

 

では、旧ユーゴ紛争は終止符を打っているのか。そう断言できる自信は筆者にはない。慎重居士の悪弊かもしれないが。

 

まちだ・ゆきひこ

1957年生まれ 82年毎日新聞社入社 ウィーン モスクワの両支局長 欧州総局長(ロンドン駐在)を経て 外信部編集委員 現在 東洋英和女学院大学国際社会学部教授 著書に『コソボ紛争 冷戦後の国際秩序の危機』(岩波書店)など

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