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原発避難・退避エリア 休刊余儀なく 配達網も全壊(いわき民報社 野沢達也)2012年3月

東日本大震災から1年がたち、被害にあわれた方々へ改めて哀悼の意を表したい。

 

さて、当時を振り返ると、弊社にとっては事実上、3月15日が、運命の日だったように思う。幸いなことに新聞製作に関する機器は輪転機も含め被災を免れ、11日以降、その甚大なる被害の詳細、生活情報等を特別紙面にて展開している最中だった。しかし、福島第一原発の爆発により、避難範囲が段々と広がるなか、「新たに屋内退避エリアに含まれるのは、いわき市です」―当時の枝野官房長官のこの一言によって、状況は一変。放射能という、目に見えぬ恐怖を社員にさらすわけにもいかず、16日以降、休刊にせざるを得ないという、苦渋の選択を強いられたのだ。

 

その後、屋内退避エリアに含まれるのは、「いわき市の一部です」と訂正があったものの、後の祭りで、いわきから人が消えてしまった。ガソリンスタンドはもとより、全ての店がシャッターを下ろし、コンビニさえ開いていない有様は、まさにゴーストタウン。

 

22日に復刊するまでの6日間、一人で出社し情報収集に努め、ひっきりなしにかかってくる電話の応対に追われた。その多くは、読者からの「避難するので新聞を止めてください」というもの。新聞にとって一度失った信頼を取り戻すのはたやすくないことは、百も承知で、復刊後に読者が戻ってきてくれるのか、そんなことばかりを考える毎日だった。

 

そんな自分を救ってくれたのが、同業者である、地域紙の仲間だった。気持ちを察し、的確なアドバイス、励ましをいただき、折れそうな気力を立て直してくれたのだ。まさに、「絆」を実感した瞬間だった。

 

復刊第一号は、A3の1ページ。しかも配達網が全壊のため200部のコピーで、社員総出で配ったもの。ちっぽけな紙きれ一枚かもしれない。しかし、新生「いわき民報」の創刊号だと思っている。一人では何もできない。多くの方々の援助があってこその復刊だった。

 

(のざわ・たつや 代表取締役社長)

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