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3県沿岸部 運営・経営とも正念場(とめさいがいエフエム 斉藤恵一)2012年3月

発災直後から停電になり、全てのライフラインが寸断してしまった登米市。復旧に8日間も要し、通信も寸断され、完全な陸の孤島となった。

 

地震発生直後から冷静に行動するよう呼びかけていた弊社パーソナリティーが「揺れが収まりました」との言葉を発したのは、発生から約7分後。携帯ラジオだけを持って避難したリスナーが多くいて、避難所では1台のラジオをみんなで囲んで我々の放送を聞いていたそうだ。登米市の防災無線も停電のためダウン。唯一の情報発信手段となった弊社は、出力を20Wから100Wに上げ、「とめさいがいエフエム」となった。

 

震度6強を記録した登米市は、建物の東海や一部破損合わせて5000棟余、道路の陥没やマンホールの隆起など、甚大な被害があったものの、その後飛び込んできた「大津波」の報道に、すぐさま沿岸部の救援・支援に当たった。

 

弊社も3月中はスタッフ5~6人がスタジオや事務所に泊まり込み24時間放送を行い、現在も定時で災害放送を続けている。総務省によると、隣接市町村の災害情報を枠取りして放送しているのは弊社だけとのこと。登米市には南三陸町仮設住宅の約25%、500戸余が建設され、多くの被災者が暮らしているから放送する。

 

被災時ネタは豊富にあった。住民が持ち込んでくれた。災害局とはいえ母体は民間企業。行政の理解もあり、店舗の再開情報や医療、食料などの命を繋ぐ民間情報はどんどん流した。気仙沼市を南三陸町の災害臨時局開局も支援した。沿岸部の情報インフラを何とかしたかった。沿岸部は情報が完全に途絶えていた。

 

被災3県沿岸部の災害臨時局の、そのほとんどは住民やボランティアなどの放送未経験者が運営している。住民に伝わってこその情報。災対本部からの情報を噛み砕かず流し、聴きづらい編成で放送している局も多く、結局は聴いてもらえていない。「絆」という言葉も存在感が薄れてきた感を持つ。自立しなければならないとも思う。災害臨時局は運営・経営面で今年が正念場。同じ放送人として、踏ん張れ!と願う。

 

(さいとう・けいいち 代表取締役)

 

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