取材ノート
ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。
何ができるか 引き裂かれた県民のために(福島中央テレビ 佐藤崇)2012年3月
「放射能が、福島の人たちの心を傷つけているのを感じる」
昨年末、『原発水素爆発 わたしたちはどう伝えたのかⅡ』という55分番組をローカル放送した。東京電力福島第一原発1号機の爆発を、メディアとして唯一捉えたあの映像以外に何の情報もない中、発生4分後にどう伝えたかはもちろんだが、何を伝えられなかったのか、むしろそっちを県民に放送するのが目的だった。
当初、30キロ圏外だった取材規制を一時、40キロに広げたこと。そのために、不安に怯えながら屋内に退避し続けた人たちからの「助けてください」「私たちはどうすればいいのですか」という悲鳴に応えられなかったこと。その一方で、原発から約50キロの郡山市にある本社でも被ばくに不安を感じるスタッフには自宅待機を認めたこと。本社まで屋内退避エリアが拡大された場合には放送拠点を会津若松に移すことを決めていたことなども率直に伝えた。
ソーシャルメディアはじめネットメディアが現地情報をいち早く伝えたとされる一方、心ない発言やデマで被災者たちが傷ついたり右往左往したりした深刻さにも触れた。さまざまな事情で子どもたちとともに福島に残ることを決めた母親たちをなぜ「殺人者」と呼べたのだろう。引き裂かれた家族、地域の絆、日々の営み、明日の約束。冒頭は、番組の中の福島報道部キャップの発言だ。とはいえ、「テレビは『こうしなさい』とは言ってくれなかった」という母親たちの指摘も私たちには痛かった。
あの日から1年、県民は冷静に生活しているようにも見える。しかし、放射能への不安が払拭されたわけではなく、特に小さな子を持つ母親たちの被ばくへの不安はなお切実だ。
今も16万人近くが県の内外で先の見えない避難生活を送る。福島は除染などの課題が山積し、復興にはまだまだ多くの時間を要する。しかし、自身、上京する機会などがあると、被災地との温度差の広がりに悄然となる。震災が風化し、これ以上に被災者が引き裂かれることのないよう地元メディアは何をすべきなのか、2年目の課題の方が重い。
(さとう・たかし 報道制作局長)