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自分の被災体験明かし 苦しみに寄り添う(中日新聞社 嶋村光希子)2012年3月

「指一本でもいい。腕一本でもいい。せめて早くおうちに帰してあげたい」。行方不明の長女を捜している若い母親が涙を拭いながら、少しずつ口を開いた。私自身の被災体験を明かし、苦しみに寄り添えたと信じられる瞬間だった。

 

寒暖の差が激しい5月末の宮城県石巻市。潮風が吹くと、がれきの砂煙が目やのどに当たる。避難所を回れば「帰って」「話すことはなにもない」と素っ気ない返答。被災者から突き刺さる視線を絶え間なく感じ、取材は進まなかった。

 

ふと、17年前に私が被災した際の記憶がよみがえった。「思い出すだけで胸の奥が締め付けられて痛い。二度と思い出したくない」。小学3年で遭遇した阪神大震災。兵庫県宝塚市の家の中はぐしゃぐしゃで、数週間体育館で避難生活を送った。家族や家を失わなかったものの、底冷えする床で余震の恐怖の中で寝泊まりした。

 

被災者の冷たい目の奥には、私も感じた恐怖心があるのかも―。葛藤を抱えつつ取材を続けている時に出会ったのが、30代の母親だった。初めは「取材は全部断っている」ときっぱり。長女を捜すことに没頭し、誰も寄せ付けないような雰囲気を感じた。

 

立場の違いに口にするのも迷ったが、思い切って一言。「私も被災したんです」。打ち明けると、母親は「あなたもつらかったでしょう」。初めて正面から目を見てもらえた。

 

続いて、母の日にもらった紫色のハンカチの話、二人で好きだった歌手など、長女との思い出を話してくれた。

 

その後、母親は他社への取材にも応じるようになったと知った。私が聞かなくても、いつかは誰かの取材には応えたかもしれない。家族の命が無事だった私の体験も、母親のつらさにはるかに及ばないものだっただろう。

 

それでも、なんとか痛みを分かち合おうとし、彼女の言葉、所作を一つとして漏らすまいと取ったペンの感覚は、いまも右手に残っている。

 

(しまむら・みきこ 岡崎支局/2009年入社)

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