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後ろめたさと格闘 生存者名にレンズを(岩手日報社 櫛引 亮)2012年3月

重苦しい空気に包まれた震災直後の陸前高田市学校給食センター。被災者の行方を記した「避難者名簿」が集まった部屋で、大勢が血眼になって名簿をめくっていた。

 

「どこを見てもいない。もう駄目かもしれない…」。夫婦は声を震わせた。一方で、避難所巡りの末、再会を果たした親子は、身を寄せ合って喜びに浸っていた。極限状態のの中で、現場が最も求めていたのは紛れもなく「安否情報」だった。

 

3月14日。避難所などに張り出された名簿をできる限りカメラに収めるため、同市に向かった。震災直後、会社は停電で通信手段を失い、現場から記者を戻してUSBメモリーなどでデータを運ぶ「人間バック」で名簿情報を伝えた。パソコンから原稿を送信する現代では考えられない原始的作業だった。

 

現実とは思えない光景が広がる土色の街を、車で走る。目的地に着くと「生存者名の束」を一枚一枚めくり、レンズを向けた。

 

「申し訳ない」。不安を浮かべる被災者の前で、機械的にシャッターを切る自分に後ろめたさを感じた。だが、「生きていることを伝えられない人のために、安否情報を待つ人のために、やらなければ」と、気持ちを奮い立たせて取材した。

 

あれから1年。季節の移ろいと共に、被災地の状況は目まぐるしく変化した。がれきは消え、街には家屋の基礎部分だけが並ぶ。被災者は避難所から仮設住宅に移り、自治体は復興計画を策定。現在は居住地を高台移転するか、かさ上げした浸水域に住むか―など土地利用を住民の意向を聞きながら検討している。

 

岩手、宮城、福島3県で1万5千人以上の命を一瞬にして奪った平成の大津波。完全な復興までの道のりは、険しく長い。これからも被災者を取り巻く環境は刻々と変化するだろう。激動の中で、住民が最も必要としている情報を、抱えている悩みを、いち早くキャッチして伝えていかなくてはならない。少しでも、被災者の希望につながるように。

 

(くしびき・りょう 宮古支局/2010年入社)

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