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マクロン登場に思う ジスカールデスタンとの比較、ドロールとの類似(伴野 文夫)2017年7月

 

これは特ダネ話ではありません。大陸ヨーロッパを取材して50年の後期高齢記者の物語です。私は今年7回目の酉年を過ごしていて、生前ご退位の高貴な方と全くの同い年、そろそろ引退の年頃です。

 

◆ドゴール将軍はまだ現役だった

 

私が初めてヨーロッパの土を踏んだのは、1968年。あの5月危機のパリの騒乱の直後でした。フランスではドゴールがまだ大統領で、毎年2回行われる恒例の記者会見の生中継をブリュッセルで見ることができました。当時78歳だったドゴールは5月危機で若者の反乱にもみくちゃにされ疲れ果てていたのでしょうか、中継される会見の最中に、しばしば咳き込む場面がありました。

 

ドゴールは自らの高齢と時代の変化を察知したのでしょうか、翌69年、負けると分かっている国民投票を仕掛けて否決されると、さっさと辞任して田舎の自宅に閉じこもってしまいました。

 

戦後のドゴールは米ソ2大国の世界支配に反発し、米英アングロサクソンの支配に徹底的に抵抗しました。中国共産党政権の承認、NATOの軍事機構からの脱退、イギリスのEC(欧州共同体)への加盟拒否、等々です。

 

しかしドゴールが引退するとその弟子たちは、直ちに師がかたくなに閉ざしていた扉を押し開いて、フランスの近代化に取り組みました。イギリスのEC加盟も承認されました。ドゴールは、イギリス加盟の日を待つことなく70年11月、この世を去りました。

 

◆ジスカールデスタンの演説を入手

 

ドゴールの弟子でありながら近代化の先頭に立った1人が、若きヴァレリ・ジスカールデスタン蔵相でした。

 

ジスカールデスタンが初めて身近に現れたのは、1964年の東京オリンピックの直前、同年9月にホテル・オークラで開かれたIMF総会でした。当時38歳、エリート・コースを歩む長身のハンサムで、絵に描いたような貴公子ぶりでした。それでも大統領に当選したのは10年後の48歳ですから、今度大統領の座に一気に駆け上った39歳のマクロンは信じられない記録男です。

 

当時ドゴール大統領はアメリカのドル支配に対抗して金本位制の復活を時に口にしていたので、ジスカールデスタン蔵相の演説には大きな注目が集まっていました。地方局から東京に上がってきたばかりの私は、難しい演説になりそうなのでテキストをもらっておいた方がいいと考え、ホテルの奥まった所にあるフランス代表団の部屋に出かけました。タイプを打っていた中年の女性に、大臣の演説のテキストが欲しいんだけどと言うと、今私が打っているのがその演説よ。待ってなさい、すぐあげると言います。5分後にはテキストを手に入れて持ち帰りました。当時は今のような厳しいセキュリティーは全くありませんでした。

 

これが大変なことになりました。ジスカールデスタンの演説は予想どおり、金を中心に各国通貨を同心円の形に配置するという複雑な話でした。ところが仏代表団は、この提案は完全に固まったものではないという理由で、テキストの配布はしないと通告してきたのです。そこで全ての国際記者団でテキストを持っているのは私1人という事態になったのです。先輩記者から大いに感謝され、噂を聞いた大蔵省の担当官もコピーを取らせてくれと言ってきましたが、代表団へ行く廊下は翌日からぴしゃりと閉ざされてしまいました。

 

その後フランスは、この提案を二度と口にしませんでした。実現不可能と知りながら世界をちょっと揺さぶってやろうという、ドゴール一流の仕掛けだったのでしょうか。

 

◆ドロール委員長のEU革命

 

ジスカールデスタンの次に記憶に残るのは、1985年から例外的に長い10年間、EC委員長を務めたジャック・ドロールです。私は89年にNHKを卒業しており、ドロールを直接取材したことはありませんが、ECからEUへの飛躍的な発展を実現した彼の業績には、大いに注目していました。95年に任期を終えるドロールは、翌年春のフランス大統領選挙の最有力候補になっていて、世論調査ではダントツの1位でした。

 

この頃ドロールについて書かれたものを探していた私は、1冊の本を見つけました。The Economistのブリュッセル特派員、チャールズ・グラントが書いたドロールの評伝です。翌年春のフランス大統領選を目指して翻訳出版しようと考えたのですが、肝心のドロールが高齢を理由に出馬に応じません。当時ちょうど70歳、やや年を取っていたのですが、やってやれないほどではありません。しかし間もなく最終的に立候補しないと宣言してしまいました。

 

やりかけの翻訳は完全に宙に浮いてしまいました。しかし、この本には他では聞けない貴重な記録がたくさん盛り込まれています。なにしろグラントはイギリス人でありながら、このフランス人委員長にぞっこん惚れこんで密着取材し、後にフランス社会党に入党してしまうほどだったのです。

 

もうドロールを売り物にしても出版社の関心を引くことはできません。そこでドロール人物伝の部分を抜いて、EC改革の秘録だけに絞れば、出版にこぎ着けられるのではないかと考えグラント氏に直接交渉したところ、すぐにOKをくれました。この本は95年、『EUを創った男――ドロール時代十年の秘録』というタイトルで、NHKブックスで出版されました。結構読んでいただいたのですが、残念なことに10年ほど前に絶版になってしまいました。

 

◆イデオロギー政党の時代は終わった

 

ジスカールデスタンとドロールの2人は、マクロン大統領の登場を機会に、クローズアップされています。

 

マクロンはジスカールデスタンの再来かとフランスの週刊誌が書きました。若き俊英の登場というところは共通するのですが、ジスカールデスタンの中道と、マクロンの「右でも左でもない」は大分違います。ジスカールデスタンは70年代のフランス社会に定着した中間層を代表する中道穏健派ですが、マクロンは左右に分裂するイデオロギー政党の時代は終わったとして、国民的な再結集を呼びかける革命的な発想です。

 

私はマクロンを見ているとジスカールデスタンよりドロールを思い出します。ドロールは停滞を続けるECに乗り込み、マーストリヒト条約を仕上げてEU国家連合をつくり、単一通貨導入を整えるところまでやり遂げました。ヨーロッパにとって、これはまさに革命です。マクロンも、その著書『革命』でドロールに対する敬意を表明しています。

 

マクロンのドイツに対する考え方もドロールに共通するものがあります。強いドイツに対する今のフランスの対応には、負け犬意識と反発が入り混じっていますが、マクロンは違います。フランスはドイツに負けない経済を立て直す、そしてドイツと肩を組んでEUの遅れた地域に対する投資に取り組むというのです。

 

マクロンが吹く起床ラッパが鳴り渡りました。これから5年間、フランス国民がこの呼びかけにどのように応えるかが見どころになります。

 

それにしても日本のメディアはなぜマリーヌ・ルペンばかり騒ぎ立てて、マクロンについて書かないのでしょうか? おそらくロンドンの論調に引きずられているのではないでしょうか。元財務官の内海孚氏が5月11日の日経新聞のコラム「私見卓見」に、日本のメディアはアングロサクソン情報の呪縛にとらわれすぎていると、警告の言葉を書きました。

 

トランプが迷走を続け、メイ政権が離脱交渉で頭がいっぱいという状況をみるにつけても、メルケルとマクロンのヨーロッパは、世界秩序を立て直す最前線に立つことになると思います。それと腕を組む力を持つのは日本です。大陸ヨーロッパを見る複眼的な視点をしっかり取り戻さなければ、日本は今後の針路を見誤ります。

 

ばんの・ふみお

1933年生まれ 59年NHK入局

ブリュッセル パリ ボン(西ドイツ)の各特派員 解説委員 退職後 杏林大学教授 著書『ユーロは絶対に崩壊しない』(幻冬舎16年9月)ほか

 

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