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私が見た江副浩正さん  カリスマ経営者は根暗な好人物だった(森 一夫)2017年6月

「この記事のせいで、当社の信用はがた落ちだ。告訴も考える」

 

リクルートの大沢武志専務は、険しい表情でまくし立てた。日経ビジネス1985年10月14日号に私が書いた「ケーススタディ リクルート 『寿命』に挑む大胆な借金経営」と題する記事への抗議である。

 

「借金経営」と書いたのがけしからんと言うのだが、「信用棄損」とは大げさだ。「取材した銀行はみな、たくさん借りてもらって、ありがたいと喜んでいましたよ」と、心配ご無用と説明したけれど、話は平行線のまま終わった。

 

大沢専務は、江副浩正社長と東京大学教育学部教育心理学科の同級で、リクルートの創業メンバーの1人である。学究肌で、後に親しくさせてもらって穏やかな人柄と知るが、その時は強硬だった。

 

私が80年から90年までいたころの日経ビジネスは、取り上げた企業から、内容が気に食わないと抗議をしばしば受けた。事実関係の間違いは別だが、切り口に関する不満の場合は、よく説明して納得してもらうしかない。そうした抗議は取材先の率直な声なので、私は臆するどころか歓迎した。

 

こちらには別に悪意はないし、特定の意図を持って書くわけでもない。取材した結果に基づいて、思う通りに書くだけである。リクルートに対しても同じである。

 

編集長から「森、リクルートを書いてみないか」と言われるまで、実はリクルートにはあまり興味がなかった。江副社長が日経ビジネスの親会社である日本経済新聞の森田康社長と東大の同窓で親しいとは聞いていたが、気にしなかった。

 

当時リクルートは、不動産を派手に買い集め、株式市場でも動きがうわさされていた。どんな実体の企業なのか。過去の雑誌などの記事は、元気な若い社員たちが引っ張る、情報出版事業の急成長会社という取り上げ方がほとんどである。江副社長は「戦後、東大が生んだ最大の起業家」と、もてはやされていた。

 

バランスシートを見ると、違う一面が浮かぶ。不動産関係の資産の急増は、銀行借り入れによるものである。総資産が1年で1・65倍に膨れ上がるほど、「大胆な借金経営」をしており、バブル経営のはしりといえた。

 

記事の結論は、これが自由を求めて始めた江副社長の目指したものなのか、というトーンでまとめた。「所詮、自転車操業の借金経営」である。「思えば『大きい会社ではなく、良い会社を目指そう』という最初のスローガンを降ろして、『ナンバーワンを目指そう』と言い出した時に、今日が用意されていた」と書いた。

 

◆意外だった陰気な第一印象

 

初対面の江副さんの第一印象は意外だった。急成長企業を率いる明るい若手経営者と想像していたが、見事に外れた。49歳の男盛りのはずなのに、生気がなく、陰気で神経質そうな感じがした。質問にぼそぼそと答え、疲れているようにも見えた。

 

その江副さんが日経ビジネスの記事に、怒り心頭だったらしい。後年、本人から「僕はあなたにああ書かれてカーッとしたけど、今思えば自転車操業だった。でも、あの頃はそんなことは思わず、絶対にうまく回ると考えていた」と直接聞いた。

 

間もなく自ら墓穴を掘るのだが、当時の江副さんは得意の絶頂にあった。友人の森田社長の直系の雑誌と気を許したら、心外にもケチをつけられたと思ったのかもしれない。

 

しかし結局、告訴もなく、詳細は不明だが何となく収まった。不動産子会社のリクルートコスモスの銀行団の持ち株比率の誤りと、「営業で『数字』を作っている」との表現は誤解を招くので、訂正を出した。

 

全て片付いて、編集長が本社の森田社長に経緯を報告した。森田社長は「私と江副さんとは友人だが、それとこれとは関係ないことだ」と言ったそうである。江副さんは森田社長にも文句を言いに行ったらしいが、そんな話は私には一切伝わっていない。

江副さんが子会社リクルートコスモスの未公開株を政界から官界、経済界、マスメディアなどまで幅広く譲渡した中の1人に、森田社長も入っていて辞任したことはご存じの通りだ。リクルート事件により、江副さんは贈賄容疑で89年2月13日に逮捕された。

 

そのとき私は同僚の末村篤記者と2人で、特集「ケーススタディ リクルート」を日経ビジネス89年3月13日号に書いた。今度は同社の管理職約250人に緊急アンケートを実施して「再び社会の認知を受けるために」という見出しを付けた。

 

◆リクルート「解体」報道に違和感

 

88年年末から江副さんの取り調べが進む中、報道は一段と過熱し、今にもリクルートが解体したりつぶれたりするかのような論調が目立った。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いといった一方的な報道に、違和感を覚えた。社員たちが今何を考えているのか報じたいと、特集を企画した。

 

そう思ったのは、85年に同社を取材して、有能でしっかりした若い社員がそろっていることを知っていたからだ。特に広報を担当した29歳の藤原和博さんは印象的だった。

 

大沢専務の抗議の後、1人で私に話を聞きに来た。いろいろ質問して帰ると、他の人から聞いた話では、藤原さんは上の人たちに「日経ビジネスにこう書かれたのは仕方がない」と主張したそうだ。藤原さんは40代で独立して、著述家や教育家などとして活躍している。

 

再生の道を探る特集を載せた日経ビジネスが出ると、当時あった「週刊宝石」の記者が取材に来た。「今、みんなでリクルートを追及しているのに、なぜこんな応援するような記事を載せるのか」と言う。日経本社の社長が辞任しているのに、何か裏でもあるのかと言いたげだった。

 

私は「みんなが左に行ったら、足りない右の情報を報道するのがジャーナリズムだろう。今ごろ、尻馬に乗って、たたいてどうするんだ」と話した。理解したようで、書かれた記事はバランスが取れていた。

 

江副さんは公判中の92年5月22日、持ち株をダイエーに売却すると発表した。その日、毎日新聞がスクープし、日経に戻って編集委員をしていた私は早朝、本社のデスクに「発表会見にすぐ行ってくれ」と電話でたたき起こされた。

 

会見のあった日の夜、取材に応じるとの一報を受ける。江副育英会に急いで行くと、久方ぶりの江副さんが開口一番「その節は失礼しました」と言う。私は長いご無沙汰を謝した。「自分の能力以上のことをやりすぎた」などの一問一答は翌日の日経朝刊に入れた。

 

◆悔恨と解放感がうかがえた

 

以来、たまに会って雑談をした。2003年に懲役3年執行猶予5年の判決が確定し、執行猶予も解けると、いちまつの悔恨は残るものの、重荷を下ろした解放感がうかがえた。

 

持ち株を売却した後、「しばらくはいろんな人の意見を聞いて、何をやるか決めますよ。社員10人くらいの小さな会社で文化的な事業でもやりたいですね」という話もしていた。しかし、ビジネスの表舞台に再び立つことはなかった。

 

事件のために52歳でリクルート会長を辞して、76歳で亡くなるまで長い余生を余儀なくされた。還暦を迎える頃には「私はもう何もやりません。創業者には墓場まで仕事を持って行くようなタイプがいるけど、僕は森さんと四方山話をしている方がいい」と、冗談で笑わせた。

 

初対面での暗い印象を話した時、「そうでしょう。影の薄い男だったでしょう。疲れてもいたし、会社のことで頭がいっぱいでしたから」と、はにかむような笑みを浮かべた。

 

全盛期の根暗なカリスマと、晩年のつき物が取れたように穏やかになった自由人のどちらも、本当の「江副浩正」なのだろう。望外の成功で自分を見失って、ある種の万能感にとらわれて失敗した。やはり根は好人物だったからではないかと思う。

 

(肩書きは当時)

 

もり・かずお

1972年日本経済新聞社入社 日経マグロウヒル(現・日経BP社)出向 日経ビジネス副編集長 日本経済新聞産業部編集委員 論説副主幹 特別編集委員など2013年退社

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